あかりちゃんとゆかりさんの話。
取りこぼしてしまうような衣擦れの音がやけに耳に響く。
今からこの人とするんだ、という緊張感で感覚が研ぎ澄まされているのかもしれない。
(……ああ、そうか)
考えて、ようやっと気づく。
かつて憧れた女と今からセックスするという事実に、緊張しているんだ。
ゆっくりゆっくり、逃げるように時間をかけて服を脱ぎながらちらと横目で彼女を見る。
澄まし切った表情は慣れ切っているようで、経験の浅い自分とは大違い。
心臓は今にも壊れてしまいそうなのに。
世界の音はこれだけで構成されているのかしら? なんて馬鹿なことを考えてしまうくらい、高鳴っているのはきっと自分だけ。
それが、少しの虚しさと安堵をもたらしてくれる。
「あかりちゃん、手伝ってあげますよ」
綺麗に畳まれた服が見えて、次に、ゆかりさんの顔がドアップで……。
「うぇっ? いやいやそんな、大丈夫、大丈夫」
どこを見ていいのかわからず、うろうろ視線を彷徨わせる。
引き締まった綺麗なおなか、控えめな胸、毛穴の一つも目立たないすべすべの肌。
無駄についた脂肪のせいで男ウケだけいい自分とは大違いな、美しい体。
「綺麗ですよ、あかりちゃん」
ゆるやかに描かれた弧が、長い睫毛が、高い鼻筋が、近付いて。
……そこから先は、あまりよく覚えていない。
ただ、夢をみていたんじゃないかと思う。
唇は苦くて、今彼女が吸ってる煙草の味がした。
キスはレモンの味とか聞いたことあるけど、やっぱり嘘じゃない。
フロントに繋がる電話を手に取った彼女が、
「一名出ます」
と告げ、受話器を置いた。
「……じゃ、私はこれで。お金は置いておきますから、泊まるなり、好きにして下さい」
「あ……。うん、わかった。またね、ゆかりさん」
「……」
またね、は返してもらえなかった。
どこまでも美しい感情の乗らない笑顔が好きだった。
でも、今は、少しだけ怖く感じる。
鍵の開いた扉に吸い込まれて行った彼女は、どこまでも無機質だ。
体を重ねた憧れが現実にいると痛感した。
なのに、ふわふわのこる余韻が、夢だったのではないか? と訴えかける。
ふ、と目についたのはテーブルに残されたメモ用紙。
お世辞にも綺麗とはいえない、されど汚いという程でもない癖の強い字で書かれた電話番号。
くしゃり、紙を握り締める。
どうせ連絡してしまう。
だって、これを逃せば二度と会えなくなるかもしれないから。
「酷い人……本当に、ひどい、ひと……」
どういう意図でここへ連れてこられたのか。
ただやって捨てるだけなら番号なんて置いて行かなければいいのに。
もっと、一緒に居てくれてもよかったのに。
消え失せた余韻が、胸に残った赤い痕が、現実だと訴えていた。
案の定というべきか、自然に指が電話番号を押していた。
その後もずるずると会って、置いていかれて、寂しさだけが募って。
意地でも会おうとは言わない。
でも彼女はそんな意地を笑うようかのように会おうと言ってくるから、どうにもこうにも心が乱されていく。
してる間は、大切にされているのに。
普段の無機質はなりを潜め、甘く優しい声に、表情に、おかしくなってしまいそうで。
今だってそう。
キスをしながら頭を撫で、ゆっくりゆっくり、撫でるように乳房を触って。
「……ゆかり、さん」
「あ、すみません、痛かったですか? ……あかりちゃん?」
ああ、今にも泣きそうだ。
どうして心配そうな顔をするんですか。
どうして、優しくするんですか。
どうして……、置いていくんですか。
「置いて、いかないで……」
「……」
困ったような、無機質な微笑み。
そんなものが見たいわけじゃない、でも、謝られたいわけでもない。
現実逃避をするように、何も見たくないと彼女をただただ抱きしめる。
「困った子ですね」
ベッドに散らばる髪を踏まないよう注意しているのがわかる。
それで、誤魔化すように頭を撫でるんだから、もう。
「……今日は、やめておきますか?」
何故だろう、ここでやめたら、彼女がどこかへ消えてしまいそうな気がして。
「ううん、だいじょうぶ。ごめんなさい」
「そう……」
諦めに似た声が頭上から降り注ぐ。
必死に頭を振る自分は、きっと滑稽なんだろう。
あれから、更に体を重ねた。
何も触れることなく、ただ、快楽に身をゆだねるだけの関係。
それでいいんだ、きっと、いいんだ。
だから、これで終わりにしよう。
震える手で電話帳を開き、結月ゆかりを探す。
何度か間違えて他の人をタップしてしまい、慌ててタスク切り。
そんなことを繰り返し、やっと、コール音が鳴り始める。
どきどきと緊張したまま一回、二回、三回……。
もう諦めようか。
そう思った瞬間、コール音が途絶えた。
「ゆかりさんっ、私、私……」
『ただいま留守にしております、御用の方は……』
「あ……」
す、と体が冷える。
何をしているんだろう。
何がしたいんだろう。
スマホを耳から離し、赤いそれを……。
『もしもし、すみません、お風呂に入っていまして』
聞こえた声に、寒さはなくなっていた。
「ゆかりさん……」
『……また、泣いてるんですか?』
困ったような、無機質な声。
義務的に声をかけられているんじゃないかと、いつも思う。
憧れを抱いていた頃だってそう感じていた。
理想の体現。
自分の中の彼女は、まさにそれだったから。
「まだ、泣いてない……」
『じゃあそのうち泣くんですかね? だめですよ、泣くのはベッドの中だけでいいんです』
「ゆかりさんの意地悪……ひどい、ひどいよ……」
『……』
うぅん、と声が聞こえる。
苦い笑いと、ほんのりあたたかな眼差し。
脳裏によぎったそれは幻なのに。
『あなたは、昔も泣いていましたね』
「え?」
『思春期の猿共にからかわれ、一人泣いていた。……もう、忘れてしまいましたか?』
ぶわりと情景が蘇る。
そうだ、彼女に憧れたきっかけが何だったか。
無駄についた脂肪をからかう男子は多く、向けられる視線も鬱陶しく、女子はそんな自分を遠巻きに見つめていた。
告白を受けても駄目、蹴っても駄目。
息苦しさで、一人になれる場所を求めて泣いていた。
『わたしね、あなたが羨ましかったの。だって、わたしの好きな子はあなたが好きだった。なのにあなたったら、無邪気に懐くんだから』
「――」
呼吸ができなくなった気がした。
憧れていた人間が地に落ちて、ううん、違う。
はじめから、同じところに立っていた。
『この歳まで生きて、結局胸は育たなかったし、あの人もどこかで幸せになっている。……ちょっと、いじわるしたくなっただけなんですよ』
どう、返事をすればいいのだろう。
迷っていると、いつもの苦笑いが耳朶を打つ。
『わたし、あなたは結構気に入ってたんですよ。でも、嫉妬には勝てませんね』
すぅっと息を呑み、彼女は続ける。
『もう、終わりにしましょうか。こんな不毛な関係は』
終わり。
その言葉を理解できなかった。
しばし沈黙が続き、じゃあ、とゆかりが声をあげる。
『さようなら、あかりちゃん』
「まっ、て……まって……。憧れなの、憧れだったの。私、私、普通に、仲良くしたかった……」
『……ごめんなさいね』
ぷつり。
物言わぬスマホを握り締め、もしもし、もしもしと声をかける。
耳から離せば、画面はすっかり真っ黒に染まっていて、急いでロックを解除する。
もう一度、もう一度話さなきゃ。
最初とは違う意味で震える指先が彼女の電話番号をタップする。
けれど。
ツー、ツー、という無慈悲な音が聞こえ、だらりと腕をおろす。
「ゆかりさ、ひどい、ひどいよ……、なんで……わたっ、私、あの頃みたいに……」
ただ、無邪気に笑い合いたかっただけなのに。
困ったように笑う彼女が好きだった。
ちゃんと相談に乗ってくれる彼女を信頼していた。
都合のいい話だ。
さよならを告げようとしたのは、自分だったのに。
すすり泣きが、静かな部屋を満たしていた。
11
翌日。
昼までたっぷり惰眠を貪った彼方が、ぼさぼさ頭のままリビングへ向かう。シチューのいい香りが漂うそこには祖父である修と、もう一人見慣れぬ人間が居た。
黒の髪に、彼方と似た、でもそれよりは少し色素の薄い青い瞳。
長身痩躯の男は、彼方を見てふわっと微笑む。
「夢成、彼方くん?」
「あ、はい夢成彼方です。ええっと、祖父のお客さんですか……? お邪魔でしたら戻りますが……」
腹は減っているが、別段我慢できない程ではない。
祖父が家に人を招くのは珍しい為、少しだけきょどきょどしてしまった。
「いい、彼方も食べなさい」
立ち上がり、修自ら皿によそったシチューがことりと置かれる。
そこまでされては部屋に戻れない。
少しの気まずさを感じながら、ぺこりと頭を下げ着席する。
「彼方、こちらは紫焔くんだ」
「どうも、はじめまして。璃々さんから頼まれて来ました」
「っ璃々さん? 璃々さんは、大丈夫なんですか……?」
ぐっと前のめりになる彼方を静かに見つめる紫焔が一つ頷く。
「もう大丈夫ですよ。今頃はゆえさんのところに居るんじゃないかな」
「よかった……。本当によかった……」
思い返してみればそうだ。
今日は帰れない、とは言っていたがそれ以降も帰らないとは言っていない。
不安が募っているところに市井のあの言葉。
誰にも八つ当たりできないが、八つ当たりの一つでもしたいような、ただただよかったとしか言えないような複雑な心境のまま、ええっと、と声をあげる。
「それで、璃々さんに頼まれて……って、どうしたんですか?」
質問した後、急に腹が減ったような気がしてシチューを一口食べる。
リブ肉の入った野菜たっぷりシチューは、安堵した空腹によく染みた。
「自分の代わりに色々教えて欲しい、って。多分璃々さんよりはメモリアについて教えられるんじゃないかな?」
「え、璃々さんは……?」
「さあ、後手に回ってるから色々調べるって言ってたけど」
彼女の性格を考えると連絡の一つでもいれそうなものだが、それがないということはそれほどまでに余裕がないんだろうか。
いや、そもそも起きてからスマホを触っていなかった。
でも、うーん。
もんもんとする彼方に、修が苦笑を漏らす。
「まぁほら、璃々ちゃんだし」
「なにその駄目な方向への絶対的な信頼」
「そうそう、璃々さんだし」
「なんでそう変な信頼があるんですか」
「璃々ちゃんだし」
「璃々さんだし」
同時に聞こえた言葉に、はああ、と溜息が出た。
人のことは言えないが、なるほど璃々の友人(多分)。
璃々と親しい人間を修と混ぜるな危険の構図が確信に変わりそうだ。
「まぁとりあえず」
という紫焔の言葉に顔を上げる。
非常にいい笑顔をした紫焔が彼方をまっすぐ見つめていて、思わずどきりと心臓が鳴る。
「ゆえさんと……誰だっけ。ひなたちゃん? も呼んでるからそれ食べてからお勉強ね」
「! わかりました! すぐ準備します!」
「いやゆっくりでいいんだけどな……」
「彼方、急いで食べると喉に詰まるぞ」
「んぐ……、そんなベタなフラグ回収しないって」
「ま、ゆっくり食ってさっさと着替えるこった」
そう言われ下をみやると、よれよれのシャツにジャージ。
紫焔は顔がいい。
そんな人物の前にこの格好で出てきたと思うとなんだかとっても恥ずかしくて、食べる速度を上げてしまった彼方はきっと何も悪くないだろう。
ゆえは今それなりに機嫌が悪かった。
せっかく璃々に会えたにも関わらず有無を言わせぬ呼び出し。しかしてそれも璃々から可愛らしく、お願い。と頼まれたら無碍には出来ない。
コンビニのコーヒーで喉を潤わせつつ、夢成邸に向かうべく車を走らせる。
璃々も共にいれば退屈やごちゃごちゃした気持ちを紛らわすことも出来ただろうに、ぱっと文字通り消えてしまっては何も言えない。
「ゆえさん、機嫌やばぁ……」
「……まぁ否定はしませんけれど。どうにも夢成おじいちゃんと相性が悪いんですよねぇ」
ちら、と後部座席を鏡越しに見れば野菜ジュースを飲んでいるひなたと目が合った。
にへ、と笑うその笑顔が一瞬璃々とかぶって、はぁっと溜息。
そりゃあ似せているんだから似ているはずだ。
どちらかといえば、璃々のすっぴんと似ている。
「そういえば、化粧はそれで固定なんですか? 似せるなら垂れ目メイクでもいい気がしますけど」
「あー、考えたンすよそれ。でもあたしが惚れたときの姿がそりゃーあもうかっこよくて。なンで髪も化粧もこれっすね」
「璃々さんは、髪がくくれないと逆に邪魔、って長いのを好むみたいですけどね」
あー。とひなたが頷く。
「それはめっちゃわかるわぁ。この長さ、縛ろうとしてもちょっとだけサイドが落ちたりとまぁ邪魔なンすわ」
「伸ばすか切るかしないんですか?」
「憧れを体現したいンでしません!」
「そうですか……」
鏡越しに向けられる呆れた視線も一切気にせずじゅうー、と野菜ジュースをすするひなた。
どいつもこいつもマイペースだ、と思いながら夢成邸の駐車場に車を停める。
「はい、つきましたよ」
「ありがとうございまーす!」
車を降り、鍵をかけてひなたの少し後ろを歩く。
「あ、そーだゆえさん、色々教えてくれる人って誰なンすか?」
「紫焔さんといって……、そうですね。いい人ですよ。脳筋というか、殺意が高いというか、璃々さんとは仲がいいみたいですけど」
「へえ、ゆえさんとは?」
ぴんぽん、ゆえの細い指が呼び鈴が鳴らす。
「まぁ普通? そこまで絡んだこともないですし」
ひなたが言葉を返そうとし、扉が開いたことで口を閉じる。
「いらっしゃい! ゆえさん璃々さん元気そうだった?」
出てきた彼方がにこにこと二人を迎える。
「元気そうでしたよ。とりあえずお邪魔すればよろしいですかね?」
「お久しぶりですゆえさん。庭の方で色々やるんで、そのままそっち来ていただければ」
彼方の後ろからひょっこり顔を出した紫焔に、ひなたの目が釘付けになる。
「かっ……顔……よ……ひぇっ……」
あわあわとゆえの後ろに隠れた彼女にゆえは苦笑を、彼方はきょとんとした表情を、紫焔はといえば。
「はじめまして。これからしばらく色々教えることになるけど、よろしくね」
わざわざ隠れたひなたの顔を覗き込みにこりと笑顔を向ける。そんなものを受けてしまった彼女は、すぅっと大きく息を吸って吐いて、また吸って、と心を落ち着けることに必死だった。
「ゆえさーん、あれなんですか?」
「恋する乙女といいますか、供給過多で死ぬオタクか判断に迷うところですね。まぁほっといていいでしょう」
「ひなたちゃんおもしろ。こーれは愉快ですわ」
呆れた視線をまるっと無視し、庭へ向かう紫焔。
彼方、ゆえ、ひなたもそれに続こうとし、振り返った紫焔が笑ったのが見えた。
「いや物騒すぎませんかね? 私非戦闘員ですけれど」
彼方とひなたの目には、紫焔が消えたようにしか感じられなかった。
笑ったかと思ったら次にはゆえの目の前にいて、何故か拳を向けているしゆえはそれを平然と受け止めている。
「非戦闘員って柄ですか? 俺ぁあんたとも戦ってみたいんですけどね」
「勘弁してくださいよ……。護身程度なら璃々さんから叩き込まれましたけど、それだけですよ」
「ほんとかな~。璃々さんもそうだけど、ゆえさんも美味しそうなんですけどねー」
瞬間腕を覆った鳥肌に、思わず手を払いのけ彼方の後ろまで一気に下がる。
「彼方くん、パスしますね」
「しないで!? えっじゃあひなたパス!」
「えっえっ顔がよすぎて直視できねーンだが!?」
「俺はボールか? あと直視してもらわないと教えられないんだけどなー……」
はじめたのが自分とはいえ、収集がつかなくなりそうだ。
わっしわっしと頭をかき混ぜた後、庭方面へ歩きつつちょいちょいっとみんなを手招きする。それで素直に集まるんだから非常にやりやすい。
それなりの広さのある庭に辿り着き、ぱんっと手のひらを合わせる。
「はい、今日からせんせーですけど、とりあえずエモノを出してください」
その言葉に、彼方はナックルを、ひなたは短刀を取り出す。
「ちょっと順番に貸してもらっても?」
「どうぞ」
先に差し出したのは彼方。
それを受け取り、様々な角度から眺めたり、撫でてみたり。
しばらくそれを続け彼方に返却し、ひなたからも短刀を受け取り同じようにした後、こくりと頷いた。
「大体わかったわ。まずひなたちゃんね。その子、なんというか人を守りたいって意志に共鳴起こしやすいみたい。ひっじょーに素直な子っぽい。でもちょっと面倒なところもあって、助けを請わないと助けてくれないところがある。そこらへんは特訓次第でどうにかなるかな?」
「え、すごいなんでわかるんですか?」
きらきらした彼方の目に苦笑をこぼしつつ短刀をひなたに返す。
「まぁ……そういう感じで」
「あっはい」
聞くなと態度で訴えていれば、聞くわけにはいかない。
夢成彼方は、非常に空気の読める男だった。
「特訓次第、っていいますけど、常に助けを求めるようどうこうする感じですか?」
「いや……そうだなぁ……」
ひなたの質問に対する適切な言葉がいまいち浮かんでこないものの、まぁいいかと再度口を開く。
「従えオラァ! って感じ?」
「……」
「なる……ほど……?」
「さすが璃々さんのご友人、言葉のキレが凄まじいですね」
「あれ今俺煽られた?」
まさか、と笑うゆえをいったん視界から外し、理解できてないひなたも放置し、彼方へ視線を向ける。
「彼方くんの子は、わりと特殊だね。そもそも製法からして……、いやこれはいいか。すごい強い魂を使って作られてるけど、なんて言ったらいいかなー」
うーんうーんと唸り言葉を探すも、感じたものが複雑すぎて言語化が難しすぎる為唸るしか出来ない。
結局、まぁいいかと思考を放棄する紫焔だった。
「慈悲、と言ってもいい気がする。万物に対する慈悲? 全部を憐れんで、救いたいって愉快すぎる思想が見えるかなー」
そんなの無理なのになー。とこぼした言葉は、幸か不幸か誰にも聞かれることはなかった。
「ええっと。魂……って、どういう……?」
困惑する彼方の声に、紫焔も同じ表情を浮かべる。
「あそっち? そこから……? え、ゆえさん、人間ってそこらへん知らないの?」
「え、さあ……。私より璃々さんのほうが詳しいでしょう」
「おじーちゃーん! おじーちゃんちょっとー!」
庭に面した窓をコンコンと叩けば、がらりと開き眉間に皺の寄った修が出てくる。
「うるさいぞ」
「おじーちゃん、人間ってメモリアの特性とかなんも知らないの? マジで? 製法も? 材料も?」
ずずいっと詰め寄った紫焔の頭をおさえながら、あぁ、とひとつ頷く修。
「知らんな。まず知られていない。知れば使えんだろう」
「それはそう。え、これ言わない方がいい?」
「そこは任せるが……、既に言ったな?」
困惑を顔に乗せる子供たちを見れば一目瞭然。
「いやだってー、知ってると思って」
「なわけあるか。製造部署しか知らんぞ。あと上の方」
「そマジ~? えっぐ……」
「まぁ、何かあればまた呼べ」
「はーい」
カラカラと窓が閉められ、紫焔が開き直った笑顔を浮かべる。
「それはソムニウムの魂で作られています!」
「ぶっ」
「えっ」
「はぁっ?」
「なんなら――」
「それはやめておきましょう」
「うぉびびった!」
いつの間に移動したんだろうか。
一番遠い場所にいたはずのゆえが紫焔の腕を掴み首をゆるく振る。
「あーまぁ確かに刺激強いか」
「お願いなので人間の気持ちに寄り添ってくださいね。この子たちはまだ高校生ですよ」
「わっかいな~。そんな時期もあったわ」
「……? え、あなたもしかして記憶がある感じですか」
「まぁね」
大人たちの意味深な会話についていけず、子供たちはこっそり顔を近付ける。
「やべーついていけねー。ひなたわかる?」
「顔がいいことしかわからん」
「あ、そう……。てか、魂って……。ソムニウムの死体回収するのって……」
「……ま、そーだろーな。いや、マジかよ……」
短刀を、ナックルを、ぎゅうっと強く握りしめる。
彼方はそうでもないが、ひなたはこれでたくさんの命を屠ってきた。
性格ゆえ団体行動に向かず、学業優先の学生だからこそ、きっとそこまで数は多くない。
けれど、屠った命が再利用されているだなんて、考えつきもしなかった。
「命が軽いって璃々さん言ってたけど、マジじゃん……」
「軽いってレベルの話か? あぁでも、まだ人間じゃないだけマシ……なのかな……」
「どうだろ……。どっちにしろ……」
ずうん、と重い空気を背負った二人に視線を向け、紫焔に戻すゆえ。
ほら見たことか、と言わんばかりのそれに、紫焔はかりかりと頭をかく。
「まじかあ」
驚いたように呟き、そぅっとゆえに顔を近付ける。
「これ俺がソムニウムですって言ったらどうなるかな?」
「ころされてしまえ」
「ド直球の暴言! いやー泣いちゃった、俺泣いちゃったよ……」
よよよ、と泣き真似をする紫焔にしっしと手を振り、ゆえは心底嫌そうに頬をひくつかせた。
「というか男に顔を近付けられたくないです、寄らないでください」
「それはそう。はー、切り替えておべんきょするかあ」
「璃々さんの友人関係はこれだから……」
人、それ以外関係なく交友関係を築けるのはまぁ凄い事だろう。
気の合う者の癖が強すぎて正直ついていくので精一杯だ。
ゆえもまたそんな彼らから癖の強い者認定されているのだが、本人はあずかり知らぬこと。
ぱん、ぱん。と手を鳴らし、紫焔が子供たちの視線を集める。
「はいはい、そんなわけでメモリアにも性格があります。それを理解することでより力を引き出すことができるってわけですね」
「せんせー質問でーす」
「はい彼方くん」
名を呼ばれ上げた手を下ろした彼方が、こてんと首を傾げる。
「そもそもそれを知る手段とかほとんどないと思うんですけど」
「いい質問ですねー。使い続けると手に馴染む。そもそも、メモリアの相性って、性格相性みたいなものなわけ。相性の合わない人っているでしょ? あれと同じ。まぁ相性関係なく付き合いが長くなるほど人となりってわかるじゃない?」
「確かに。付き合いはそんなだけど、なんとなくひなたのことわかってきたし」
「右に同じく。なぁんとなく彼方のことわかってきたわ」
二人の言葉にうんうんと頷き、続きを説明する。
「理屈とかじゃなくて、感覚で理解できるらしいよ。ついでにこれは璃々さんが言ってた。俺はちょーっと詳しいだけで適正とかないっぽいし、まぁ拳があれば事足りるし……」
話が脱線し始めたことに気付き、さておき、と続ける。
「二人はちょっとでもその能力を引き出したらしいね? 大体の場合共鳴するきっかけはメモリアの持つ思考に寄り添ったり、彼彼女からの共感を得ること。あっこいつ同じこと考えてるじゃん力貸したろ。って思わせることであって、そこをクリアしたならあとはー、特訓ですね」
「特訓」
彼方とひなたの声が被る。
ここまでしっかり説明できるのに結局はそれしかないのか、と思ってしまった二人を置いてけぼりに、紫焔は笑う。
「そ。あとここまでで質問ある?」
「あ、じゃああたしから」
「はいどうぞひなたちゃん」
「ウッ顔が……。……えと、メモリアのことはなんとなくわかりました。あたしは長いことバイトしてるから、色んなメモリアを見る機会があるんですけど……」
「うんうん」
「……璃々さんがよくやってる瞬間移動的なものだとか、一瞬で物を消すのって、そうじゃないですよね……?」
「あ~俺ちょっとよくわかんないな~」
それは最早答えだろう、と思わせるような言葉を言い、両の手で耳を塞ぐ。
そんな紫焔の尻へばしんっと蹴りが入ったが、蹴ったゆえの方が一瞬だけ傷みに顔をしかめていた。
「いや固すぎでしょ鋼鉄かなんかで出来てるんですか」
「鍛えてるんですぅ。てかやっぱいい蹴りすんねぇ、ちょっとだけ、ちょっとだけだから……」
「やめろ悪食こっちに寄るな!」
「璃々さんに怒られちゃうからやめまーす。で、他に質問は?」
「あ、俺からも。特訓って、何するんですか?」
「そらー拳よ」
「こぶし」
「まず無理だと思うけど、俺にエモノ当ててみ。それが出来た頃にはいい感じに仕上がってると思うよ」
いつでもどうぞ、と言わんばかりに構えた紫焔に、ゆえは安全圏へ避難する。
彼方とひなたは顔を見合わせ、ぎゅっとそれぞれのメモリアを握り締めた。
「ほら、いつでもおいで? ゆえさんも混ざってくれていいんだけど、まぁそれは今度で」
「一生やらないので安心してください」
「残念だなー。……ほら、さっさと来いよ二人とも」
向けられたのは、明確な敵意。
肌で感じる程に強いそれは、今まで感じたことのないもので、それだけ彼が強いと理解できた。
だからといってどうこうなるわけでもなく。
「よろしくお願いします!」
「しゃおらやるぞ彼方! 最近消化不良だしなァ!」
「ほんそれ! 頑張るぞひなた!」
気合十分に武器を構えた二人に、紫焔はにんまりと笑みを深くした。
10
本社に戻り、報告の為五階へ向かい、コンコン、とゆえがノックをする。
ややあって聞こえた返事と同時に扉を開ければ、疲れ切った表情の市井がこめかみをぐぐ、とおさえているところだった。
「ああ、お疲れ様です。報告でしたらあらかた璃々さんから受けましたよ。それと、ゆえさんはしばらくその二人の専属となっていただきます」
「は……?」
有無を言わせない言葉に、いや、実際命令なのだろう。
しかして突拍子もない言葉に間の抜けた音が出てしまう。
「あ、いえ、すみません。どういうことでしょうか」
「璃々さんはしばらくお休み、ということです。安心してください。璃々さんがいる前提の仕事ではなく、ちゃんと実力に応じた仕事を回しますから。寧ろ今までがおかしかったくらいですよ。はあ、嫌ですね。璃々さんからもたくさん嫌味をもらってしまいました」
言うだけ言って、こめかみから手を放す。
「あ、あの……」
おずおず、と口を出した彼方は、市井の表情を見てぐっと口をつぐむ。
同情が、そこにはあった。
憐れむような視線を遮るようにひなたが一歩、前に出る。
「その言い方だと、まるで璃々さんが戻らないように聞こえましたが」
「さあ、どうでしょうね……。あの方の考えることは、わかりませんから。まあ、ともかく今日、明日はお休みにしておきます。話は、以上ですよ」
「……失礼しました」
「ゆ、ゆえさん……」
気を使う視線が、三つ。
どうにもこうにも、やってられない。
はぁっと隠しもせず溜息を盛大に吐き出し、ゆえはすたすたと部屋を後にする。
「失礼しました」
「……あ、ひなた。あとで追いつくから」
「ん。わあったよ。任された」
ばたん、閉じられた扉に、溜息が一つ。
「彼方さん……、璃々さんがどこへ向かったか、ご存知ですか?」
「いえ……。俺は何も……。市井さんは、知らないんですね」
「あの方は、いつもそうです。上の無茶ぶりに挟まれた私を気遣って、青葉璃々の命令無視にしろと言う。今回は、誰を想って行動しているんですか?」
質問は質問で返されてしまった。
車で移動している間も、この部屋に入るまでも、ずっと考えていた。
彼女は何を思って行ってしまったのか。
「わかりません……。俺、わかんないです。ソムニウムは、璃々さんなら救えるって言ってました。それも、わかりません」
「そう、ですか。彼方さん、知っていますか?」
「何を、ですか?」
「誰かを想って行動したその裏では、絶対的に誰かが苦しい目に合うんですよ」
璃々さんは、と彼は言う。
「自分が悪者になっていれば全部解決すると思っている。そうして、実際そうだ。私もそれに救われた。じゃあ、彼女の尊厳は、誰が守るんでしょうね」
椅子から立ち上がり、何も言えずにいる彼方の肩をぽん、と強く叩く。
それは璃々と違って、少しだけ痛くて。
「もう、帰りなさい。彼方くんや里中さんが居るのにあんな仕事を回すのがおかしいんだ。……だから、気にしなくていい。それに、彼女なら大丈夫」
「大丈夫、って、なんで言えるんですか? 攻撃、もらったんですよ……」
泣きそうな声に、もう一度ぐりぐりとこめかみをおさえる。
「彼女は死にません。彼女自身が言っていました。はあ、申し訳ないですが、後処理が多くてね」
「……すみませんでした。失礼しました」
部屋を出て、扉に背を預ける。
自分が行かなければ。
それだけが、胸を占めていた。
早足に先を行くゆえをなんとか追いかけていると、彼は自動販売機とベンチが置かれている場所でぴたりと止まった。
「何か飲まれますか?」
「え、いや、ええっと……」
「何か聞きたいことがあるんでしょう?」
「……えっと、じゃあ、ぶどうジュースで」
ぶどうジュースとコーヒーを購入し、どっかりとベンチに座り込むゆえ。
普段の余裕があるようで、一切ない。
彼方に任せろと言った手前頑張るつもりではある、だけれど、ひなたは自分が直球でしか物が言えない自覚がちゃんとあった。
傷口に塩を塗ってしまうかもしれないと思いながら、そっとその隣に腰をおろした。
「璃々さん、戻ってくると思いますか……?」
「さて、どうでしょうね」
そう言いながら渡されたジュースは冷たい。
それと同じくらいひんやりとした汗が背中をつたっている気がして、言葉も選べなくて、ひなたは開き直ることにした。
「帰ってくるって、信じてますか?」
「……嫌な聞き方しますね」
「すみません。あたし、ごちゃごちゃ考えンの苦手で、言葉を選ぼうとすると、詰まっちゃうンす」
「なるほどね。はあ、信じてるか、ですか」
かしゅ、とプルタブを開け、ブラックコーヒーで喉を潤す。
缶の離れた口元は、弧が描かれていた。
「そんなの当然じゃないですか。勿論、何も言われないのはまぁ……、ちょっと悲しいですけれど。それでも、私が信じなくて、誰が彼女を信じるんです?」
一瞬、言葉が出てこなかった。
「いいなぁ」
そうして出た言葉がこれだったので、あっと口元を覆う。
「そうですか?」
「えっと……、はい。だって、お互いに信じあってるってことじゃないっすか」
「信じてる、ね……」
苦笑を浮かべるゆえに、なんとなく触れたくないなぁと思いつつ。
「違うンですか?」
結局触れてしまうひなただった。
「さあ。まぁ、そうだと思いますよ」
「……最初璃々さんと会って、怪我しちゃったとき。お詫びだーつって、飯奢ってもらったンです」
「ああ、そういえばそんなことを言っていたような」
思い出すように遠くを見るひなたに、ただ黙って続きを待つ。
「璃々さん、ゆえさんのこと大好きなンですね。ゆえさんが羨ましくて。璃々さんから好かれてるあなたが、羨ましくて」
「んん……、なるほど?」
「あたし、あの人に助けてもらったンすよ。六年生の時。お姉ちゃんはあたし守って死んで、あたしも死ぬかと思って、でも、あの赤色に助けられた。惚れたンす。だから、髪も、化粧も真似て、この仕事はじめて」
ふにゃ、と笑うひなたは、誰がどう見ても幸せそうで。
「あ、惚れたっても別に恋とかじゃねーから! あっいやじゃないです! 絶賛彼氏募集中なンで!」
「はあ、聞いてませんけど」
「うは辛辣……」
「だって璃々さんが好きなのは私でしょう?」
「ンンン、推しカプ幸せになってくれェ……」
唸るひなたに、ゆえが、んー、と声をあげる。
「じゃあ、つらいことを話してくださいましたし、私からもひとつ」
「えっ推しカプ情報ですか、聞きます」
やっぱりやめようかな、と思いつつもゆえは口を開く。
「私、自己肯定感低いんです」
「解釈の一致じゃん……」
「……でもまぁ、ほら。あの人は、言動で、行動で、全力で好きって伝えてくれるでしょう?」
「あー、確かにそうですね」
「信じちゃいますよね」
「……」
「生きてますか?」
「死んでるぅ……」
「これだから供給に飢えたオタクは……」
ちら、と廊下の奥を見ると、今にも死にそうな表情をした彼方。
こちらはひなたと違いてこずりそうだ。
出かけた溜息をぐっと我慢するゆえだった。
右手に持ったコンビニの袋がきらりと月明かりを反射する。
歩く度かちゃかちゃと音が鳴る袋の中には、手土産である酒がこれでもかというほど詰め込まれている。
正直重すぎて怪我をした左腕に響くのだが、それはそれ。
絶賛行方不明中だと思われている青葉璃々は、そこそこの機嫌で歩いていた。
そもそもな話、彼女にはその自覚がない。
今も、ただ目的地へ向かっているだけで、しっかり帰るつもりがあるのだ。
そんな彼女の向かう先は、郊外にある一軒家。
あの後いくつか知人の元を訪ねた璃々だったが、結果は散々なもので求めているものは手に入らなかった。
最後の手段として、あまり会いたくないような、会いたいような、そんな相手へ連絡を取った結果ここにいる。
ぴんぽーん、と呼び鈴を鳴らししばらく待っていると扉が開く。
中から現れたのは長身の男で、黒い髪がぴょこぴょこ跳ねていた。
「おはよーございます」
「夜だけどおはー」
低い声は少しだけ掠れていて、寝起きだとうかがえる。
少しばかりぼんやりとしている彼の目の前にコンビニの袋を持ち上げれば、ぱっと目を輝かせたけれど。
「おみやげ」
「さっすが璃々さんさいっこう!」
「はいはい、失礼しますね~」
「どうぞどうぞ。ちゃんと片付けたんで綺麗ですよ。まぁ途中で寝落ちしたんだけど」
「かんかんかーん、夜ですよー」
「それ朝に言うやつ」
彼の部屋に通され、適当な場所に座れと言われたので遠慮なくベッドにダイブしたまま足をぱたぱたしていれば、呆れたような視線が突き刺さる。
「座れって言ったんですけど」
「いいじゃん別に減るもんじゃなし」
「いーや減りますね」
「何が?」
「え? なんだろう……。ベッドの寿命?」
「そんな簡単に減ってたまるか」
「それはそう。……で、急にどうしたんですか?」
ぎしり、とスプリングが軋み、少しだけベッドが沈み込む。
「んー。しーちゃんにお願いがあってー」
「しーちゃん言うな」
「紫焔くんにお願いがあってー」
ぱたぱた、ぱたん。
足を動かすのをやめ、よいこらせと座り込む。
そうして手に握り込んでいるのは、腕。
今日大鎌で切断した、マジクと名乗ったソムニウムのものだ。
「これ食べて」
「めっずらしい。俺が食べるのそこまでいい顔しないのに」
「悪食はね……。いや能力なのはわかってるけど、限界がいつ来るかわからないでしょ。じゃなくて、マジクってソムニウム知ってる?」
マジク、と何度か呟き、結局紫焔は首を横に振った。
「知らないですね。これ、そいつの?」
「そ。どういう原理か知らないけれど、攻撃を食らった職員が発狂してね」
「あー……ところで、そのお綺麗な腕に傷があるように見受けられますが」
「つまりはそういうことなのだよ!」
「いただきまーす」
あ。と大口を開け腕を嚙み砕く。
ばりばりごりごりと骨が砕ける音。
肉を咀嚼する音が響き続け、腕は綺麗さっぱり彼の腹に収まった。
「うへーいつ見てもぐっろいねー」
「美味しいですよ?」
「うちはいいかな……。で、どう?」
がさがさとコンビニ袋から安酒を取り出し、璃々にも一つ手渡す。
かしゅかしゅっと二つ音が響き、口に含み、そうしてから彼はこくりと頷いた。
「わかりましたよ。時間差で発動するトラップのようなものですね。攻撃手段は爪で、爪先に毒があるみたいです。毒の発動は気分でできますね」
「きぶん」
「はい、気分です。そーうだっえいっ。でできます」
さすが愉悦民、と思わなくもないが、今この瞬間にでも気分一つで殺されかねないという事実はいささか心臓に悪い。
「感覚的に何人もやられてるっぽいですけど、助けたほうがいいですか?」
「まぁ、青葉璃々的には助けたほうがいいんじゃないですかね」
「ふーん……。じゃま、助けておきますね。璃々さんのついでに」
「そりゃどうも」
にこにこ笑うこの男は、本来ならば敵であるはずのソムニウムである。
なのにも関わらずこうして穏やかに会話できるのは、彼が変わり者だからだろう。
「もう大丈夫ですよ」
「よかったー。これでゆえさんのところに戻れる」
「ほんと好きですね」
「そらーもう大好きよ」
ところで、とにっこり笑う紫焔に、ぞわりと鳥肌が立つ。
「お礼とかー、もらえたり?」
「酒買ってきただろ酒!」
「ちょっとだけ、一口だけだから」
「どたまかち割るぞ」
「さすがに割られたことはないなー、死ぬかな?」
「さあ……」
どうにもペースが崩される。
髪の毛をくるくると指に巻き付けながら、うーん、と唸る。
「どうしたんですか?」
「いや。最近穏便派どうよ」
「えー。俺そっちとはあんまり仲良くないんで……。ゆえさんでしたっけ? あの人の方が仲いいでしょ」
「まぁね……」
穏便派、と呼ばれる派閥がある。
ソムニウムで構成されたそれは、人と争うことを良しとしない者たちが集まり、人に溶け込んで暮らしているものだ。
派閥と銘打っているものの、だからといって助け合っているわけでもなく、ただ世間一般にソムニウムと……人の敵と認識されているモノだとバレないように暮らしているだけ。
紫焔は別に穏便派というわけではない為、聞かれても情報など持っていなかった。
ただ、人は襲わない。それだけだから。
「んじゃ、ソムニウム側は?」
「そっちこそ知りませんよ。俺嫌われてるし」
「だろうな」
「仕方なくないですか? 悪食なんて能力持っちゃったら」
「ソムニウムを食って力を得る、ねー。いい趣味してるよほんと」
油断させて、正々堂々と戦って、ばくり。
食った相手の能力を得ることができるが、それも無限に使えるわけではない。
余程相性がよければ己のものにすることが出来るものの、大半は回数制限付き。
今回璃々が腕を持ち込んだのも、それが理由だった。
「璃々さんもこっち側になっちゃえばいいのに」
「あのさあ、それ今日も言われたんだけど。なに、ソムニウムで私を勧誘するの流行ってる?」
「……え、なんで? バレたんですか?」
断られる前提の冗談で言った紫焔が表情を引き締める。手に握りしめた安酒が緊張感を消している気がするし、璃々もぐびっと安酒を勢いよく飲んでいる為か、あまり真剣には見えない。
「それがわっかんない。やだなあ、ゆえさんとはっぴっぴに生きたいだけの人生だった……」
「さすがに俺は情報収集できないですよ」
「知ってる」
「んー、俺もそっちの仕事手伝いましょうか?」
その言葉に、璃々がぱあっと顔を輝かせる。
「助かるー! 夢成彼方って子の面倒みてくんない? 一応私の弟子なんだけど、私と一緒にいるの危ないだろうから。あ、ついでに特別な魂持ちらしいよ」
「わあ、美味しそう」
「……前言撤回。手伝わなくていいよ」
す、と表情を消したのを見て、紫焔は慌てて両手をぶんぶん振る。
「冗談! 冗談ですって!」
「そもそも特別な魂って何よ」
「え、俺が知ってると思います?」
「うん、聞いた私が馬鹿だったわ」
どこからか取り出した煙草を口にくわえたのを見て、紫焔も煙草に火をつける。
「同族殺しって、人もそうだけど、やっぱ嫌われるんですよ。んでもって、俺強いから」
「そだね」
「やっぱこっち側になりません?」
「ゆえさん一筋なんで無理でーす」
「ま、璃々さんはそういう人ですもんね」
「うん、そだよ」
「これから、どうするんですか?」
「あー。しばらくは身を隠す方向? かな?」
「うちに住みます?」
「ゆえさん以下略」
「あっはい」
ともかく、と璃々がじっとりした視線を彼に向ける。
「頼りにしてるので、彼方くんをお願いね?」
「まっかせてくださいよ。ところで、ちゃんと入社したほうがいいんですか?」
「いや……、そうだな」
じい、と紫焔の瞳を覗き込み、ふるふると首を横に振る。
「適性がなさそうだから正面きって行っても無理じゃない? 夢成さんに話通してごり押しも難しいし……、夢成さん経由でゆえさんに話通してもらうわ」
「あー、あのじーさん。老けたよなー。俺が生きてた頃はめちゃくちゃ若かったのに」
「そだね」
「璃々さんは変わりませんね」
「そっちもね」
「……ま、のみましょうか!」
「よっしゃ寝かさねーからな!」
今日は帰れそうにないな、とぼんやり思う。
明日こそは帰るつもりだが、どう転ぶのか。
ゆえには、我慢させてばっかりだ。
ぐ、っと美味しくもない酒を流し込んだ。
9
辿り着いた廃墟は比較的綺麗なもので、ひび割れや崩壊などがほとんどなかった。
廃墟にありがちな落書きやゴミも少なく、はて、と彼方が小首をかしげる。
「ここ、なんか結構綺麗だね」
「あー、確かに。璃々さん、ここってなんだったとかわかりますか?」
問われた璃々が、うーん、と唸りながらスマホをたぷたぷスクロールしていき、あ。と声をあげた。
「数年前に倒産したっぽい。まだ持ち主も手離してないとかで、そのうち取り壊して新しくなんか出来るかもってさ」
「ええ、そんなとこに住み着かれるとかちょー迷惑じゃん」
「ほンとだな。ま、ぱぱっとやろーぜ」
にやり、獰猛な笑みを浮かべたひなたに苦笑しつつ、かなたもナックルをつけた拳をぎゅっと握り込む。
敵は一体。
人型に近く、死亡者こそいないものの、
『見逃された』
『殺されなかっただけ』
『逃げる様をただ眺めていた』
といった意見が多く寄せられている。
圧倒的に強いソムニウムにも関わらず、何故か殺しはしない。
そういったことから、璃々に声がかけられたようだ。
ひなたも共に呼ばれたのは以前に引き続き教育の為だと思われるが、そこらへんの事情はさっぱりな彼方だった。
「……なんか嫌な感じするんだよね。まぁ、気を引き締めていきましょ!」
大鎌をぶんっと一振り。
ひなたに負けず劣らずいい顔をした璃々が一歩踏み出す。
それに続く二人も、己の獲物を強く握りしめ、いつソムニウムが出てきてもいいよう神経を研ぎ澄ます。
歩いて、歩いて、最上階までたどり着いて。
「いねーじゃねェか!」
「璃々さぁん、すれ違い通信でもしました? いませんよー」
「おっかしいなぁ……」
スマホを取り出し、アプリを開くも反応はこの地点のまま。
一度アプリを消し、メッセージアプリを開きながら壁にもたれかかる。
「ちょっとゆえさんに連絡してみるねぇ。一応そこらへん警戒しておいてちょ」
「了解でーっす」
「まかせてください璃々さん!」
そう元気に返事した二人だが、警戒しようと何もいない事実は変わらない。
「なぁなぁひなたー、こういうのってよくあるの?」
「いや……。ねェな。ちゃんといる。つまり、もしかすると喋れるくらいのやつが潜んでるかも」
その言葉にきょとんとした彼方が、えーっと。と口を開く。
「喋れるのってすごいの?」
「……ツッコミ疲れてきたわ。より強いソムニウムは言葉を理解し、喋るの。意思疎通ができるの。つまり知能が高い。だから強い。わあったか?」
「へえ……。璃々さんに来る仕事、みーんな喋る相手だったから、知らなかった」
あんぐり口を開けたひなたを見て、えへっ、と笑う彼方。
璃々は思いついたことしか言わない。今回も恐らくそれだろうと思ったのだ。
「や、……ああ? は? えぇ……。彼方、おめー、それについてって、よく死ななかったな」
「……最初、化物に会った時」
ふ、と彼方の表情が曇る。
次には、出来るだけ明るい笑顔を浮かべているのだけれど。
「友達二人は、死んだ。喋る化物だった。璃々さんが、一瞬で殺してくれた。いっつもそうだよ、璃々さんは苦戦することもなく、簡単に殺していく。寧ろ物足りないとか、つまんないとか言ってた」
「なる、ほどな……。そっか。やっぱすげー人なンだな」
尊敬の眼差しを向けたその瞬間、着信音が鳴り響きびくりと彼方が肩を震わせる。
どうやら璃々の携帯らしく、耳にそれを当てた。
「もしもしお疲れ様です。……は? いやいやいやいや。生き残った人間が突如発狂した? 危険度あげんじゃねーよ。二人は退避させるけれどよろしくって? ……、……中間管理職は大変だなぁ? 勝手にやらせてもらうからいつも通り命令無視にしとけくそったれ」
通話内容までは聞こえてこないが、璃々の言葉に二人は思わず武器を握り締め顔を合わせる。
「やばそう、だな」
「あたしらの手に負える感じじゃねーな、これ……」
スマホをしまい込んだ璃々が盛大に舌打ちをして、そのままにこっと笑う。ほんの少しだけ苛立った笑みは、二人の緊張感を高めるに十分すぎるもので。
「撤退するぞー。発狂は時間差があるっぽい。最初に会敵した三人組が揃って発狂。ドライバーは無事なあたり、攻撃を受けたのが原因だと思われ。殺して解除されるなら御の字、ワンチャンノーミス撃破が求められるし厳しいでしょ」
「一階にたどり着くまでに仕掛けてくる可能性ありません?」
「あるね。あるから、飛ぶぞ」
「えっ。璃々さん、ここ二階三階とかそういうレベルじゃないですよ?」
「ほら、捕まって。大丈夫だから」
恐る恐る、といった様子で彼方が璃々にぎゅうっと抱き着く。
その反対からひなたも抱き着いたところで、バチン、と音が聞こえ。
「っぱ狙ってたか! ごめん二人とも、先に戻ってて! ゆえさんによろしく!」
二人の視界がぐにゃりと歪む。
迸る血しぶきと、歪む端正な表情、人間離れした美しさを持つ……。
ばっ、と目を開いたとき、二人は後部座席に座っていた。
「……おかえりなさい。状況は芳しくないようですね」
ミラーから覗くゆえの表情はとても険しく、スマホをじっと睨みつけている。
「え、えっ? ゆえさ、今俺たち最上階にいて……」
「どういう……璃々さんて一体……」
「……さて。きみたちはここで待機ですよ。璃々さんが戻るまで大人しくしていてくださいね」
どこまでも穏やかな声に、彼方は思わずぎゅうっと拳を握り込んだ。
「でも、ゆえさん! 璃々さんが危ないんですよ! ノーミス撃破しないと駄目って、璃々さんは強いけど、でも!」
「じゃあ、彼方くんが行ってどうにかできますか?」
「それ、は……」
出来るとは思えない。
圧倒的に強い彼女が負けるとも、思えない。
でも、万が一。
攻撃を喰らってしまい、ソムニウムを殺してもどうにもできなかった場合。
「ゆえ、さん……。ゆえさんは、璃々さんが、好きなんですよね」
彼方の思考を遮ったのは、いつも以上に落ち着いたひなたの声。
「怖くないんですか。好いた相手が二度と戻ってこないかもしれない、それが、怖くないんですか……?」
今にも泣きそうな程震えた声に、ゆえは小さく息を吐き出した。
「私にできるのは、待つことだけです。待つしか、出来ないんですよ。無事を願うことの無力さと虚しさがわかりますか? ……いえ、すみません」
八つ当たりですね、と苦笑するゆえに、二人は黙らざるを得なかった。
力を持つものと、持たない者。
璃々より圧倒的に弱い自分たちが行っても足手まといだけど、行くという選択肢は存在する。
でも、彼にそれはない。
「まぁ、ほら。彼女は強いですから。いつものようにへらへらしながら戻ってきます」
その言葉に、確かにと納得してしまう。
そう、流されかけた。
「! だめ、だめ! さいご、一瞬意識飛ぶ前! 血出てただろ!? あれ、あれ、あたしら庇って……!」
ひなたの叫びに、彼方はドアを開け駆け出していた。
足手まといだとか、無力だとか、考える間もなく、助けなければと、そう強く思って。
「……ひなたさん」
「あっ、はひ……」
「あなたは、大人しく、待ちますよね?」
「まちます……」
取り残されたひなたは駆け出すこともできず、ゆえから放たれる威圧感に怯える羽目になっていた。
静かなビルの内部に、パチン、パチン、という音が響く。
大鎌を構えた状態で音の場所を探るも、すぐ移動してしまいいまいち敵の位置が判別できない。
どうやら無機物内に潜る、ないし同化し移動することができる……というところまでは読めていた。
でも、それだけ。
子供たちは車に送ったものの、状況は非常によろしくなかった。
思わず出てしまった舌打ちと険しい表情のまま口を開く。
「さっさと出てこいや。めんどくせーこた嫌いなんだよこちとらよぉ」
パチン。
音が止まり、璃々の目の前に現れたのは美丈夫。
黒の髪を後ろで束ね、燕尾服に身を包んだ長身の男が、にこりと笑う。
「あら顔がいいこと。ところで確認なんですけれど、あなたと対峙した人間が発狂したらしくて。あなたのせいかしら?」
「まぁ、そうとも言えますね」
「ふうん。それ、殺したらどうにかなる?」
「さて、どうでしょうか……。殺してみれば、わかるのでは?」
パチン、音が聞こえ、男は再び消えた。
「め、めんどくさ……」
既に一撃はいれられている。
じくじく痛む腕が利き手じゃなくてよかったと安堵すべきか、発狂コース確定ルートという事実に発狂すべきか。
「んんん……、私面倒なことは嫌いでね。どうせ壊す予定でしょここ。ならいいよね?」
上腕の痛みを無視し、ぐっと大鎌を握り込む。
「死ねクソッタレが!」
むやみやたら振るったところで当たらない。ならば、隠れる場所をなくしてしまえばいいじゃないか。
そんな思考のもと大鎌から放たれた衝撃派は、轟音と共に一階天井までを綺麗さっぱり消し去っていた。
当然彼女も落下するかと思われたが、ふっと姿を消したかと思えば一階に立っている。
「り、りりさん……?」
「あー。帰れ」
突如消し飛んだ天井と、いきなり目の前に現れた璃々。
意気揚々と飛び込んだ彼方もさすがに予想外過ぎてついていけなかったし、いつも以上に辛辣な璃々にかなり驚いていた。
「ごめん、あいつめっちゃめんどくさくて、守れる気がしない。無機物と同化するみたいで、あと愉悦民。こっちの反応見て遊んでる。発狂は恐らくあいつのせい。殺したら解除されるかもわからない。だから、戻って」
パチン。
音と共に足を掴まれ、咄嗟のことに反応が遅れた彼方。
「ええい鬱陶しいもぐら叩きさせんじゃねぇ!」
大鎌が足元に叩き込まれ、ひゅっと喉が鳴る。
「普段のお遊びじゃないのよ。まぁ、そのうちこんなんとも相手するだろうけど……」
「いやです」
「うっそじゃーんそこ帰る流れじゃーん」
「でも、いやなんです……いやなんだよ……」
「……ソムニウムさぁん、ちょっとタイムくれない? 五分でいいからあ」
パチン。
姿を現した彼は、肩を震わせていた。
「んっふふ、んく、いいですよ……っふ、愚か……実に愚か……実力もわからない人間から死んでいくというのに……人間は愚かですねぇ……」
「いいんだ……あざま……」
疲れを隠しもせず、彼方の肩をがっと掴む。
「ね、なんで嫌なの?」
「もう誰かが死ぬのは、嫌なんだ」
「そうだね。でも、足手まといだよ。さっきみたいに捕まって人質になっちゃったら、私普通に死んじゃうよ」
「……」
「うっやだ泣きそうな顔しないで、私はその顔に弱いんだ……」
「ごめんなさい、勢いで、なんも考えてなくて……璃々さん怪我してたって、ひなた言ってて……ごめんなさい……」
「……うぐぐ、心を鬼にできない……夢成さん似なのが悪い……」
罪悪感を滲ませた表情から一転、ぎっとソムニウムを睨みつける。
「ねーねー、この子に手を出さないとか約束してくれたりしないー? しなさそーなキャラしてるよね」
「おやおや、心外ですね。まぁその通りですけれど」
「……このまま外に逃がしたとして、どうする?」
「捕まえますけれど? いい人質になりそうだ」
「っぱそうだよな! 知ってた! 知ってたよ! オラァ彼方ァ! 構えろ死ぬなよ」
「ほんっとごめんなさい! マジですみませんでした! もうほんと……無理……」
ぽんぽん、と頭を撫でられ、彼方は顔を上げる。
そこには、優しい笑顔を向ける璃々が居て。
「こっちこそごめんね。守れると思えない。死ぬかもしれない。でも、庇わないで。いいね?」
有無を言わせぬその声に、頷くことしかできなかった。
「お話は終わりましたか?」
「終わりましたあ。お優しいソムニウムさんのおかげでね、終わりましたよ」
「そうですか、もっとお礼を言ってくださってもよろしいんですよ?」
「ありがとうございましたァ! 死ねくそったれ!」
にんまりと、整ったその唇が歪む。
「お初お目にかかります。わたくしはマジクと呼ばれております。以後お見知りおきを」
大袈裟でありながらも洗礼されたお辞儀に、璃々は鼻で笑う。
「どーおも、青葉璃々でーす」
「夢成、彼方です」
二人の名を聞いた途端、ぱしぱしと瞬きをし、そうして。
「ふふ、ははははは! やっと出会えましたねぇ! 特別な魂を持つ者と、半端者。まぁわたくし正直特別な魂とかはどうでもよいのですが、一応お仕事なので、ええ」
「やだ彼方くんアレ怖い……なに……」
「え、わかんない……。でも、特別な魂って、俺、前も……」
最初に出会ったソムニウムが、そう言っていた。
忘れられるわけもない、あの化物が。
「ところで提案なのですが……」
にこにこと、彼が璃々に手を差し伸べる。
「以前種をしかけた者たちを救ってさしあげてもいいですよ?」
「ふーん、対価は?」
「そちらの人間は正直興味がないので見逃してさしあげましょう。ですが、青葉璃々。あなたはこちらへいらしてください」
「……というと?」
「人で在り続けるのは苦痛でしょう? 人は愚かだ。違うというだけで排除する。異端だと、化物だと同じ人を見下し続ける。一体何が違うというのか……。皆共通して愚かでしかないというのに」
「却下で」
振るわれた大鎌は、無防備な腕を意図もたやすく跳ね飛ばした。
宙を舞い、ぼとり、と地に落ちたそれを無感動にみやり、彼はやれやれと首をすくめる。
「残念です。あなたは人と相容れないでしょうに」
「てめぇ、さっきから好き勝手、璃々さんの何を知って言ってんだよ、璃々さんは優しくて、かっこよくて、人間味たっぷりな素敵なおねーさんなんだぞ!」
「へえ……?」
彼方の叫びにくすりくすり笑ったマジクは、落ちた腕を拾い上げ璃々の方へ投げ飛ばす。
当然受け取るわけもなく、大鎌で弾かれた腕はもう一度床へ叩きつけられた。
「そちらはさしあげますよ」
「いや、いらんが」
「おやおや。助けたくないんですか?」
「え……」
言葉の意味がわかった璃々と、わからない彼方。二人が同時に出した言葉に、彼はくすくすと笑う。嗤う。
「ま、そうでしょうね。あなたはそうでしょう。ほらやっぱり人として生きるのは向いていない」
「……それは」
ぐっと口ごもる璃々に、とうとう彼はけらけらと笑い声をあげる。
「お前、さっきからうるせえよ」
「っと。危ないですね」
璃々に集中しているから、とこっそり近付いて渾身の拳をいれる、つもりだった。
あっさり避けられたそれに、もう一度、もう一度と何度も殴ろうとして、そのすべてが当たらない。
「軟弱ですねぇ。わたくし、強い者が好きでして。ですが、ふぅむ」
彼方の拳をあっさり受け止め、そのまま瞳を覗き込む。
「な、んだよ、離せよ!」
「誰でしょうね。あなたの能力を封じているのは」
「それ、どういう……」
「そのままの意味ですよ。あなたは力があるはず……。ですが、何者かに封じられているご様子。自力で解くか、封じた者を探すか。……仕方ないですね。今日はお暇いたしましょう。怒られそうですが、まぁ……」
視線の先には璃々。
今にも当たりそうな大鎌に、彼方をぽいっと捨てパチン、と姿を消す。
「今の夢成彼方、あなたは使い物にならない。精々強くなってください。青葉璃々。いつでもこちらへ寝返ってくださっていいんですからね」
「ふざけんな誰が寝返るかよ!」
「いつか、あなたはこちらへ来る。予言してさしあげましょう」
「……」
くすくす、ふふふ、笑い声が徐々に遠のいていき、あたりは静寂に包まれる。
「気にしなくていいよ、彼方くん。あいつらの言うことなんて」
「璃々さんも、璃々さんだって。気にしなくていいんですよ。あんなの。璃々さんは素敵な人なのに……」
「……どうだろうね」
落ちた腕を拾い上げ、ぽーん、ぽーんと放り投げ、掴んで、を繰り返す璃々。
「ごめん彼方くん。先に帰ってて。ゆえさんにも、今日は帰らないかも、って言っといて」
「え、璃々さん、まさか追うとか……?」
「まさか」
不安げな視線を受けたまま、しかしいつものように優しい声をかけることも、頭を撫でることもなく、彼女は背を向ける。
「でも、そう、ちょっとだけ、気になることがあって。お仕事、止めてもいいけど、どうする?」
「あ、いえ、バイトは……続けたいですけど……」
「そう。じゃあ、取り計らっとく。ああ、そうだ。魂とか、そういうのは、報告しない方がいい。……じゃね」
「あっ……、消えた……」
声をかける間もなく、彼女は消えてしまった。
まるで、最初からいなかったかのように。
しばし呆然と璃々のいた場所を見つめて、そうして、気付く。
「ゆえさんに、なんて……言えば……」
待つしかできないと、彼は言っていた。
そんな人間に、なんと伝えればいいんだろうか。
「えやだ戻りたくない……」
切実に消え入りたい、そう思いながらも、足取り重くゆえとひなたの待つ車へと戻っていく。
ぎゅっと拳を握っても、大きく息を吸っても、伝えなければならないという事実は変わることなどなく。
車を目の前にし、ようやく覚悟が決まる。
がら、と勢いよく扉を開き、ぎゅっと拳を握り込み。
「ええっと……あの……伝言がありまして……」
出た声は、非常に情けなかった。
「璃々さんからですか?」
「あっはい……あの……今日は帰らないかも、らしいです……」
「……へえ?」
車内の温度が一気に下がった気がした。
いそいそと車に乗り込んだ彼方がそっとひなたの手を握ったけれど、ひなたもひなたでゆえが怖かったのでぎゅっと握り返す。
「ほかに、何か言ってましたか?」
「あ、いえ……」
「じゃあ……、ソムニウムは、何かほざいてましたか?」
彼方の脳裏に思い浮かぶのは、人と相容れない。その言葉。
でも、それを直接伝えていいのだろうか。
少し悩んだのち、結局口を開く。
「璃々さんが、人と相容れない、って。言ってました。こちらへ寝返れ、とも」
「そう、ですか。ちゃんと、断ってました、よね……?」
「即答で断ってましたよ。でも、なんか思いつめた感じで……」
「一日どころじゃすまないかもしれませんね……」
「え?」
「いえ、なんでも。それより一度報告へ向かいましょうか」
うまく聞き取れなかったが、話を逸らされてしまっては聞き出せない。
ひなたの手を握ったまま、俯くことしかできなかった。
8
朝九時、ソムニウム対策ビル五階。
クーラーのよく効いた部屋に、彼方たちは案内されていた。
机に座り腕を組む三十代半ばの男……、市井昇が、つらつらと説明事項を話す。
「ソムニウムの情報は随時更新されていますので、通知が来た際は確認をお願いします。二度通知が来た場合は仕事となります。できればスマホの位置情報をオンにしておいてください。迎えがスムーズになりますからね。ですが必ずしもというわけではありません。特に彼方さんは璃々さんの弟子となったわけですから、璃々さんに連絡すれば事足りるので」
現在はスマホにインストールするアプリについて話しているものの、それを真剣に聞いているのは彼方一人だけ。
その横に立つゆえは話を聞いているように見えて何も聞いていないし、壁に背を預けている璃々はあくびを隠しもしていない。
疲れ切った表情を隠しきれていない男が彼方にカードを渡す。
「そして、これが社員証です。とはいえあなたはアルバイトですから、権限は低いです。従業員用出入口のカードキーもこれを通せば開きます。あとは……、璃々さん、くれぐれも頼みましたよ」
「ほいさっさー」
飄々とした笑みを浮かべる璃々に吐き出される溜息が二つ。
「璃々さん、もう少し真剣にしてください……。いえ、いいんですけどね、あなた強いですから」
「璃々さん、仮にも上司の前です。もう少し真面目にしないと給料減らされますよ」
「それは困るわ」
「しませんよ!」
じゃれる三人を興味深そうに見つつ、彼方がカードを受け取る。
黒いカードの左下に彼方の名前が印字されているが、他には特に何も書かれていない。
「めっちゃシンプルですねー。これ。あ、ついでになくしたらどうなります?」
「戦いの最中なくすなどということは正直よくあります。ですが、それもタダではありません。まぁつまるところ弁償ですね。とはいえ、アルバイト含め職員の給料は高いですから支払いに困ることはないでしょう。給料から天引きします」
カードをまじまじ見つめていた彼方が、なるほど。と頷く。
「ですが、くれぐれもなくさないようにお願いします。なくした際は隠さず連絡を。こちらでカードキーの役割などを止めなければなりませんからね」
「わかりました、気を付けます!」
びし、と左手で敬礼した彼方に、ゆえがくすりと笑う。
「手、逆ですよ」
「あれ? そうだっけ?」
「獲物を扱うのはまぁ大体右手でしょ? だから、自分は武器を持っていない、危害を加える気はない。って意味合いも込めてるんだってさ」
「はえ~なるほど」
次は右手で敬礼した彼方を見て、市井がこっそり溜息をつく。
職員は曲者ばかりなので、彼方のようにまっすぐな人間は少ない。いないわけではないけれど、珍しい部類になる。
なにより“あの”夢成修の孫。
正直、どう接していいのかわからなかった。
「お話のところ申し訳ないんですけどね、仕事ですよ。今回は里中さんも同行です」
「おっ、ひなたも! えーっと、どこに行けば?」
「とりあえず食堂でお待ちしていると思いますよ。あーあと、璃々さんは少し話があるので残ってください。ゆえさんは夢成さんを案内してあげてくださいね」
「了解です」
「了解でーっす」
「さ、行きますよ彼方さん。……それでは失礼します」
「失礼しましたー!」
ゆえに促されるまま退出した彼方を確認し、にこぉっと笑みを深くする璃々。
「はいはいそれで? 内緒のお話?」
「内緒のお話です。あー。璃々さんはご自身のことをどこまで?」
「なーんにも。ああ、年齢は聞かれたけど。まぁ答えてないかな」
その答えにほっと息を吐くのを見て、璃々が笑みを消す。
「それはよかった。憧れの女性を追いやりたくはないので」
「さーすがにね? 機密事項ってんのはわかってるよ。でもそのうちばれると思うなぁ」
どさり、と机の上に腰を下ろし唇を触る。
それを咎めることなく、市井はまた大きく息を吐いた。
「璃々さんに恩のある人間は、僕を含めたくさんいると思います」
「うん、知ってるー」
「同時に、疑問に思っている人間も多い」
「それも知ってる」
市井の表情が歪む。
どうして理解してくれないんだと、そう言いたげに。
「あなたは、自分が特殊だとわかっておられるでしょう」
「まあ……さすがに」
「ならば何故よりにもよって夢成修の孫を弟子にとったんですか……」
「成り行き」
「そうですねそういう人でしたね……」
人差し指を唇から離した璃々が、見惚れてしまう程の綺麗な笑顔を作る。
「知ってるでしょ。私、夢成さんに恩があるの。あの子あのままじゃ死んじゃう。夢成さんをよく知ってる私だからこそ師匠にぴったりでしょ?」
「……ほんと、そういう人でしたね」
諦めの滲んだ声が室内に溶けていく。
それからしばらく続いた沈黙を破ったのは、市井。
「最近なにやらきな臭さを感じます。ソムニウムも強くなっている。あなたはどうか、人のままでいてください」
「……。そうね、考えておくわ」
すとん。机からおりた璃々がすたすたと入口へ向かう。がちゃりと扉を開けたところで、市井が口を開いた。
「ほんと、お願いしますよ」
「……」
ひらりひらりと手を振り出て行った彼女に、やっぱり溜息を吐く市井だった。
ゆえに先導され辿り着いたのは食堂。
時間が時間だからかそこまで人がいるわけではないが、それでもぽつらぽつら食事をとっている者はいた。
彼方がきょろりきょろりとひなたを探せば、すぐに見つかった。
染められた赤毛は、それなりに目立つ。
にこにこ顔の彼方が彼女に近付き、ぽんっと肩を叩く。
「ひーなたっ、今日一緒に頑張ろうな~」
「んっ……」
もぐもぐごっくん。
鮭のムニエルを飲み込んだひなたがぎっと彼方を睨みつける。
「お前な。マジでお前な。食ってる時に話しかけるのはまぁいい。いきなり肩叩くのはびびんだろやめろや。喉につまりかけたわ」
「あ、ごめんね大丈夫?」
「まぁ大丈夫。ちゅーか今日の相手お前かあ。璃々さんいンの?」
「いるよ、今市井さんが話あるからって引き留めてるけど」
「私もいますよ」
見守っていたゆえが声をかければ、ひなたはびくっと肩を揺らした。
「い、いたんですね……。こんにちはゆえさん」
「はい、こんにちは」
ばくばくする胸をおさえ、すうはあ深呼吸して再びムニエルを食べ始めるひなたに、そわそわした彼方がムニエルをちらちら見ながら声をかける。
「ねね、一口ちょーだい。めっちゃ美味しそう」
「はあ? まあいいけどよ。ほら」
一瞬嫌そうな顔をしたひなたがそれでも身を箸で切り分け、そのまま彼方の口に放り込む。
もぐもぐ噛み締めていくにつれ、彼方の表情はぱあっと明るくなっていく。
「なーにこれすんごい美味しい。ありがとひなた」
「あいあい。……あ、そうだ今日のはなんかぼちぼち強いとか聞いたわ。この間あのざまだったし……、まぁうまいことやろうや」
言い切った後気まずそうに目を伏せ、もくもくとムニエルを咀嚼する。
「ん、そだね。俺も頑張るよ」
ああそうだ、というゆえの声に、二人が視線を向ける。
「お二人ご指名ということは、恐らく璃々さんから色々指導が入ると思いますよ。先日は、能力の一端を使いこなされたんでしょう?」
「あたしは……どうなんでしょうか。ただ必死で、あまり自覚がないんです」
「ナックルから火花ばちばちーってなってぶわーってソムニウム燃えたんだよね。んでもあれ一端ってことは、もしかしてもっと強くなるってことですか?」
「そうですね。私は適性なしなので詳しいことは知りませんけれど、璃々さんの戦いは幾度か見たことがあります。基本能力を使わずとも勝てる彼女ですが、全部が全部そうとは限らないですから。まぁ、その辺も彼女が説明するんじゃないですかね」
ぽいっと丸投げしたゆえになるほどと頷き、口を開けてムニエルちょうだいアピールをする彼方。仕方ねぇな、と再度口に放り込んでから最後の一口を完食し、ひなたが席を立った。
「下げてくる」
「ほーい。ごちそうさま」
「いってらっしゃい」
彼女が離れたのを確認し、それまで座っていた椅子に腰を掛けゆえをちょいちょいっと手招きする。そうして顔を寄せたゆえに、彼方がこしょこしょ耳打ちする。
「なんかすごい素直になってません? どしたのあの子」
「プライドの高い人間は総じて認めるということが苦手ですからねぇ。でも、彼女は高いなりに他者を認めることができるんじゃないですか? あと、同い年のようですし」
「ふーん……。そんなものですか?」
「そんなものですよ。多分ね」
「ゆえさんも?」
「……私は別に。凄いものは凄いと素直に思ってますよ」
「はえー。ゆえさんおっとな~」
「ふふ」
と、ここできゃあっとひなたの声があがったので自然とそちらを見る。
入口付近にいる璃々のもとへひなたが驚きの素早さで近付き、きゃあきゃあと賞賛の言葉や感謝を連ねていて、相変わらずだと二人して顔を合わせた。
もう一度女性陣を見れば、璃々が助けを求めてじっとりした目をこちらに向けていたものだから、急いでそちらへ向かう。
「璃々さんさっきぶりー。お仕事頑張りましょうね!」
「おうおう、今日は学生組に頑張ってもらうからね。私は後方師匠面であれこれ口出しするから」
「踏み込みが甘い! って?」
「あれねぇ、好きだけどねぇ……」
「はいはい、話が脱線しますよ。車へ行きましょうか。詳しくはそちらで」
考え込みそうになった璃々の手を引き、ゆえが先頭を歩く。
「あの二人ほんっと仲いいよな。さすが事実婚」
「事実婚だったの……。あーでも璃々さんとゆえさんほんっと素敵じゃね? あんな彼氏欲し~」
「彼氏いるぅ? 俺恋人の必要性がよくわかんねーんだけど」
心の底からわからないという彼方の声に、ひなたが「はぁあ?」と唇を尖らせた。
「いる、絶対いる。疲れ切ったところを甘やかしてくれるイケメン彼氏いてみ? 最高じゃん?」
ふむ、と脳内に妄想を膨らませる。
命がけでバイトを終わらせ、疲れたから会おうと連絡する。会って適当に会話を膨らませ、よしよしと撫でてくれるような……。
「いや璃々さんじゃん」
「は?」
「いやね、考えてみたの。お仕事終わって疲れた~って言ったら撫でてくれるような相手。璃々さんがしてくれるし……。ゆえさんもしてくれるし……。いらないかな」
「は? 贅沢か? ソムニウムの前にてめーを殺さなきゃいけねーみてえだなぁ……?」
手にしっかり握り込まれた短刀を見て、さすがの彼方も冷や汗を浮かべ手をぶんぶん振る。
「過激派コッワ! ぷるぷる……殺さないで……悪い彼方じゃないよ……」
「百合に入る竿役レベルに邪魔なンだよてめぇ……」
「おんなのこがさおやくとかいわないで」
女の子でもそういうの、知ってるんだ。という感想と、女の子に夢をみていたい気持ちが綯い交ぜになった結果、耳に手を当てダッシュで逃げ始める。
「百合に混ざる男はギルティだけどもうちょっと可愛い言い方して! あとそういうの読むんだね!」
「待てコラ逃げンな! 女の子が可愛いだけの生き物だと思うなよ!」
走り去る二人に、大人組がくすくす笑う。
「私も普通に読むよ~」
「彼方さん、そのままひなたさんを車まで案内してあげてくださいねー」
「聞きたくなかった! 案内は任せてください!」
全力で車へと逃げる。
時折ちら、ちらと後ろを振り返れば短刀こそ納刀していたが凄まじい形相で追いかけてくるひなたが見え、一定の距離を保つよう気を付けながら走って、走って、やっと車に辿り着き足を止めた。
「ひーなたっ、なっ、落ち着いて。今日もほら~、多分終わったら璃々さん撫でてくれるって。だからほら、な?」
追いついたひなたは、少しだけ考えるように口を尖らせ、しぶしぶ頷く。
「まぁ、そういうンなら? 先に撫でてもらうのはあたしだからな」
「あ、はい。どうぞどうぞ」
「てかおめー女に興味ないわけ? ゲイ?」
「なわけ。女の子は可愛いと思うよ。ただ、親友と三人で馬鹿やるのが何よりも楽しかったっていうか? ……うん、そだね、そんだけ」
「ふうン……?」
表情に影を落とした彼方を胡乱げに見たひなただったが、車に背をあずけぼんやり空を見上げる。
「ま、いいと思うけどね。つかてことはおめー童貞か?」
「どどど童貞ちゃうわ」
「あっは、答えじゃん」
けらけら笑う彼女に、ふっと彼方も口元を緩める。
「俺の友達はよく童貞捨てたい彼女欲しいって言ってたけど、そんなわざわざ求めなくたってさ、好きになれなきゃ続かないだろうし、だからって遊びとか嫌だし」
「へえ。案外しっかりしてンのな」
つい、と寄せられた感心を含む目に、苦笑いで肩をすくめる。
「もう一人の友達、こっちはなんか無駄にむっきむきで怖がりだったんだけど、ギャップがいいとかって結構モテててね。童貞は捨ててたし彼女はいたんだよな。まぁなんか続かないんだけど」
「へえ、そらまたなンで」
「俺たちと遊ぶのが楽しいから彼女放置してふられるってさ。放置ってか、すまないその日は彼方と遊ぶんだ……。とかって断るから」
「あーそら駄目だ。頻度にもよるけどよぉ、彼女って特別感あるだろ? そいつの特別は自分じゃなくて彼方なンだって思っちまうわ」
「だよな。まぁ、ってわけで、俺たちはずっと三人だったんだよ」
それに、と彼方は笑う。
「今はほら、バイトで忙しくなりそうじゃん。俺、強くなりたいんだよね。俺が好きって思えるやつを守れるくらい強くなりたい。誰も死なせたくないんだ」
「おまえ……。いや、いいわ。そっか、じゃあ一緒に頑張ろうな」
「おうよ!」
どちらともなく差し出された手を強く握りしめる。
「ま、俺初心者以下だから色々教えてちょーだい」
「根に持ってんのか? まぁしゃーねーし色々教えてやるよ」
す、と離された手。
少しだけ照れ臭そうにしたひなたを、彼方はにこにこ笑顔で見つめる。しばらくして、べしりと頭をはたかれてしまうのだが。
「おうおう、じゃれてんねぇ。車乗り込みなー」
「仲がいいですねぇ。それでは行きましょうか」
「はーい!」
「はい!」
元気のいいお返事が二つ。
璃々とゆえは顔を合わせ、くすりと笑んだのだった。
7
日課となりつつある朝のランニングを終え、シャワーを浴び、目玉焼きも一緒に作れるトースターでパンにベーコンを乗せて焼く。
先に目玉焼きを作っておいて、あと数分のところでパンをいれないと焦げてしまう。
そわそわ時間を確認しながらパンを入れ数分。
チン、と軽快な音にぱっと顔をあげあちあち言いながら取り出し、上に半熟目玉焼きを乗せ塩胡椒。
「いっただきまーす!」
カリッと焼けたパンに、熱を帯び少し縮んだベーコン。とろりと輝く目玉焼きの組み合わせは、彼方をにっこにこにさせた。
はふはふあちあちとゆっくり食べ、手を合わせてごちそうさまでした。
食器は下げ、洗い物が少ない為水で軽く流してシンクに放置。
その後は面倒な宿題を少しだけこなす、予定だった。
スマホからチャットの通知が来るまでは。
「……? あっめずらしゆえさんだ」
顔認証で開く前の画面に表示されているのはゆえの名前。
パスロックを外し内容を確かめる。
『おはようございます。彼方さんのことなので済ませてると思いますが、少し食事でも行きませんか? コーヒーの美味しい喫茶店をご紹介しますよ』
一度読み、二度読み、わっちゃわっちゃと縛っていない頭をかきむしる。
「何故……何故飯を食った、俺ェ……!」
最高に美味しい朝食だった。サラダがあれば完璧だったかもしれないが、レタスがなかったのであきらめた。
でも、もっと美味しいものが食べられたかもしれないのに。
しかし彼方は食べ盛り男子高校生。まだいける気がするという錯覚を強め、了承の連絡を返した。
十分ほどで迎えに行くというメッセージが来ていたので、短く「おけまるっす」とだけ返事をして短パンと着古したシャツという部屋着からジーンズと青のシンプルな半そでのシャツに着替える。
スマホと財布をジーンズのポケットにねじこみ、そろそろ時間かと外に出れば、最近すっかり見慣れてしまった車が家の前に停まっていた。
がー、と助手席の窓が開き、ゆえがにこりと笑う。
「おはようございます。今日は助手席へどうぞ」
「あっれ。今日一人ですか? 璃々さんは?」
扉を開け、勝手に閉まる窓を見ながら椅子に座り、ばたんと扉を閉めてからシートベルトをしっかり装着する。それを見届けたゆえがきょとりとしながら車を発進させた。
「あれ。言って……ませんでしたね。彼女は朝が非常に弱いのでまだ寝てますよ」
「あー、めっちゃ朝弱そう。わかる。夜会うと元気そうなのに朝とか表情死んでますし」
彼方がうんうん頷くのをちらと見て、ゆえがくすりくすり笑う。
「そうですねー。あれ起こすの大変なんですよ。よっぽど仕事がきつくない限り夜はスマホかパソコンでゲームしてるのでなかなか寝ないし……」
「あー……」
わりと人のことを言えない彼方だった。
今度会ったときになんのゲームをしているのか聞こうと思いつつ、ぼんやりゆえの顔を見る。
相も変わらず穏やかな笑顔は、それでも幸せそうだった。
「ま、私も人のこと言えないんですけど。あそこまでいぎたなくないので」
「ふうん……。あ、ゆえさんどんなゲームするんですか? 俺も結構やるんですけど」
「色々……? サバイバル系だったり、FPSだったり。ローグライクやRPG、面白そうなものはとりあえず手を出しますかね」
ぱっと彼方の表情が明るくなる。
「じゃあー、もしかしたらやってるゲームかぶってるかもってことですよね?」
「可能性はあるかもですね」
「そうなら今度一緒に遊びましょうよ! 二人と遊ぶの、絶対楽しいと思うんすよね」
それに、と続けるのはやめた。
一緒に遊ぶ相手は、いなくなってしまったから。
などと言うのは、さすがに憚られる。
これが璃々相手なら普通に伝えたかもしれないが、彼方にとってゆえは未だよくわからない人のまま。
「いいですよ。時間が合えばですけどね。ああ、璃々さんはすぐオーケーを出すでしょうし、仕事休みの日にでもうちに来ますか?」
「えっいいんですか!」
「もちろん」
にこりと笑ったゆえに、彼方もにこにこ笑みを深める。
嬉しさ九割、事実婚してる人の家にお邪魔していいのか? という疑問一割。でも、きっと二人はそんなことを気にしない。
彼方の頭の中は、なんのゲームやってるんだろう! というわくわくで満ち満ちていた。
しばらく車を走らせ辿り着いた喫茶店は、駐車場の数もそう多くなく、外装もなかなかに年季の入ったものだった。
からんからん、と音を立て開いた扉の先にはコーヒーの香りが満ちていて、彼方は思わず大きく息を吸う。
これまた年季の入った、さりとてレトロといえる程には手入れのされた家具。いくつか設置された観葉植物はどれも生き生きとしているし、何よりも。
店内に流れるジャズミュージックが、ひどく心地いい。
いい店だと、彼方はきらきらした目で店内を見渡していた。
こちらに気付いた、恐らく四十代くらいの男がにこりと懐かしそうな笑みを浮かべた。
「おや。いらっしゃい。いつもの席?」
「はい、いつもので」
「今日は可愛らしいお連れさんだね。隠し子?」
「ははは、違いますよ。お世話になった方のお孫さんです」
隠し子、でふきだしかけた彼方は、世話になった、でこてんと首を傾げる。
仲がいいとは思っていたけれど、そうだったのか。
璃々は自分のことをたくさん話すし、だからこそある程度彼方も突っ込んだ話ができる。ゆえは逆に自分のことを喋らない。
胃痛保護者としてにこにこ見守っているから喋る機会が少ない、ともいう。
「そう? 注文はあとでいくよ」
「わかりました。彼方さん、こちらですよ」
「はーい」
どうやら常連らしいゆえが座るのは、店の中でも一番奥まった場所にある席だ。
濃い緑のソファは、ふわりと彼方を受け止める。ファミレスにあるものとは大違いの感触に、内心でだけきゃっきゃ騒いだ。
こんな店で騒ぐのは恥ずかしいので、あくまでも脳内だけだ。
「そういえば朝食はとられたんですっけ? 私はまだなので適当に食べますけど。好きなもの頼んでいいですよ」
手渡されたメニュー表に目を滑らせる。
どれもお手頃良心価格で、彼方のお小遣いでも普通に食べられそうだ。家から距離があるから、今後来たくても来れない可能性の方が高いけれど。
「目玉焼きとベーコンのせたパン食べちゃったんですよー。なもんで、ケーキセット頼んでいいですか?」
「どうぞどうぞ」
チーズ、ショート、チョコ、無難中の無難なケーキは、絶対美味しいだろう。
ドリンクはジュース、紅茶、コーヒーと選べるらしく、それも種類がたくさんある。
コーヒーや紅茶の名前などさっぱりわからない彼方は、それでもせっかく大人のおにーさんと来ていることだし? と思い切り背伸びをすることにした。
す、とコルクのコースターが机の上に置かれ、その上に輪切りレモンが浮かんだ水のグラスが乗せられる。
「ご注文はお決まりですか?」
「私はいつもので。今日は紅茶の気分なのでダージリンをお願いします」
「俺はケーキセットお願いします。いちごショートで、飲み物はオリジナルブレンド」
「かしこまりました」
人好きする笑みを浮かべながら去って行った男の背を見送り、ゆえを見るとこれまた人好きする笑みで彼方を見つめていた。
「どしたんですかゆえさん。にっこにこじゃないですか」
「いやあ。飲めます? コーヒー。甘党みたいですけど」
「多分きっとめいびー」
自信なさげに視線をうろうろさせていると、朗らかな笑い声が目の前から聞こえる。
目をぱちくりさせた彼方が、グラスを持ちこくりと一口飲み込んだ。
「ゆえさん、そんな笑い方もできたんですね」
「そんなとは?」
「やほら、普段にこにこしてるかくすくすとか、ふふって笑ってる気がして」
「あー……。まぁ、面白ければ笑いますよ」
じゃあつまり普段は……?
疑問を頭の隅っこに押しやり、彼方はもう一度水を飲む。こんなに美味しいレモン水ははじめて飲んだかもしれない。
「あ、そうだ。今日は一応用事があったんですよ」
「用事?」
これを、と差し出された紙には、数字と言葉が並んでいる。
「これは?」
「どうやら心は決まったようですし。今まで見学していたのは、最初研修を受ける職員がすることです。ソムニウムを見て、戦える覚悟が持てるか。平和とかけ離れた日常にその身を置けるか。など、判断していただく期間ですね。そして、あなたは実際に倒してみせた。その間のお給料です」
「お給料!?」
ばっ、と置かれたままの紙を手に取って何度も読み返す。
おかしい、どう考えても桁がおかしい。
ただ見学しただけでもらえる額もおかしいが、一体討伐しただけの額が更におかしい。桁が違う。
ぐるぐるふわふわと混乱する頭で、なんとか言葉を絞り出す。
「あの……桁、おかしくないですか」
「璃々さんはもっともらってますよ」
「いや、あの、ちが……そうじゃなくて……」
ということは、ひなたもこの額を。
彼女は五年も学業と並行していると言っていた。
貯金、やばそう。
さらにくらくらしてきた頭をぐしぐしかき回していると、失礼します、という声と同時にすっと美味しそうなケーキが目の前に置かれる。
いちごはつやつや輝いていて、ふわふわのスポンジの真ん中にはスライスしたいちごが敷き詰められていることが見て取れる。生クリームも、下品にならない程度にしっかりある。
続いて出されたコーヒーも、あまり詳しくないながらにいい香りだと思える。
「ありがとうございます」
「いえ。ゆえさんはもうしばらくお待ちください」
「はい、待ちますね」
「では」
相変わらず、彼は音を立てず去って行った。
一旦金の話は忘れ、まずコーヒーを一口。熱くて舌を火傷しかけ、慌ててふうふうと息をふきかけ、改めて一口。
苦味が口の中に広がるが、同時に爽やかさもあった。
「美味しい……。美味しいけど俺コーヒー何もわかんない……。缶コーヒーと比べたら失礼かもだけど遥かに美味しい……。でもちょっと苦い……」
「んっふふ」
肩を震わせるゆえに首を傾げ、次にフォークを持つ。
す、と小さくケーキを切り分け口にゆっくり放り込む。
思ったより、生クリームは甘くない。くどくない甘さだろうか。しっとりしたスポンジと、甘酸っぱいいちごに合う甘さ。
「美味しい……えっ美味しい……うま……」
その後もくもくと食べ、コーヒーを飲み、また食べるを繰り返す彼方に、ゆえは口元を手で覆いぷるぷる震えていた。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます。彼、気に入ったようですよ」
「めっちゃ美味しいです!」
す、す、とサンドイッチの乗ったプレートや紅茶を置きながら男がにこりと微笑む。
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」
ほわほわ、と花が舞いそうな笑みに、彼方も同じ笑みを浮かべた。
やっぱり彼はにこにこと、音もなく戻っていく。
「ゆえさんのも美味しそう」
「一ついります?」
サンドイッチは三つ。ハムと卵、ツナとレタス、もう一つはトマトときゅうりだろうか。
「え、でもゆえさんおなか減らない?」
「大丈夫ですよ? 今日は久々の休日ですし。別段詰め込まなきゃいけない理由もありませんからね」
す、とプレートが彼方の方に寄せられたのを確認し、ううっと唸る。
「じゃ、じゃあ~、どれくれます?」
「お好きなものをどうぞ」
「な、悩む~! うーん、トマトのやつ! いただきます!」
すっと手を伸ばし、そのままぱくんっと一口かじる。
「ん~~~~~、うま……えっこの店なにもかもが美味しい……最高じゃん……やばみある……」
「うーん、語彙力まで璃々さんに似ていますね」
プレートを戻し、ティーポットに入った紅茶をカップに注ぎつつ苦笑いするゆえ。
元々璃々と修は似ている。
やはり、あの修に育てられたからには似ているんだろう。
にも関わらずゆえ自身含みもなく仲良くできるのは、あの破天荒さを肌で感じ反面教師にしたからなのだろうか。
璃々は、頭の悪いことを言っても引き際を見極めている。
修もそうだが、あれは言ってることがその何倍もめんどくさい。
「そんな似てます? 俺、じーちゃんとゆえさんの方が……わあサンドイッチ美味しいなあ!」
すっ。と細められた目に彼方はもくもくもしゃもしゃサンドイッチを食べた。食べてるから何も言ってないよ理論である。
はああ、と心底嫌そうな顔で溜息を吐き出したゆえが、まるで拗ねたように紅茶を一口飲みもそもそサンドイッチを口にする。
「……いや、よく言われるんですよ当時から。めちゃくちゃ似てるって。璃々さん曰く、めんどくさいとろと情けないところと無駄に愛が重くて歪み切ってるところがそっくり、だそうですよ」
「わっか、いえなんでもないです、ええ本当に。なんでもないです」
もぐもぐごっくんと残ったサンドイッチを飲み込み、コーヒーをゆっくり味わう。
ゆえのじっとりした視線は、確かに修と似ていた。
「はあ。そういうところ璃々さんに似てますよ。とりあえず脳死で発言した後爆速で撤回するだとか」
「わっかる~。よくやりますぅ……」
心当たりしかない。
食べかけだったケーキを頬張り、その美味しさに顔を綻ばせる。
そうして、はっと気付く。
「つまり……璃々さんはママ……ってコト……!?」
「その理屈で行くと私がパパになるんですけど……。いやそれはいいんですけど……」
「あ、いいんだ……」
「夢成修とかいうボケ老人が私の父になるのは嫌です」
「……」
ぶれないなー、この人。
ツッコミを放棄し、フォークに刺した最後の一口は大変美味しかった。
喫茶店を出てから、一度家に寄りゲーム機を回収したのち修に璃々とゆえの家に行くと告げた。
大変羨ましいと騒いでいたが、全てまるっと無視して車までダッシュする。
給料はとりあえず受け取るという形で話が落ち着いたのだが、起きた璃々からの電話で別の用事もあると言われ家に行くことになったのだ。
ついでにゲームの話題をすれば、是非持ってきてくれというので祖父への報告がてら寄った、ということの運びである。
そうして辿り着いた彼らの家は、とても大きなマンションだった。
一階の角部屋らしく、オートロックを解除したゆえのあとをついていく。
「ここ、一応職員に貸し出されているマンションなんですよ。寮のようなものですね」
「どっからどう見てもお金持ち御用達みたいなマンションが!?」
「建てたのは夢成さんですよ。彼のコネで一階の角部屋もらえました。というか彼方さんも大概なお金持ちの孫じゃないですか」
「それはそう。本当にそう」
二人で暮らす家は、別に豪邸というわけじゃない。しかし、セキュリティは万全だし二人で暮らすには広すぎるのも事実だった。
とはいえ、もらっているお小遣いは一般的な額。修はその点しっかりしていて、孫がしっかり周りに馴染めるようにと配慮しているのだが、彼方はあずかり知らぬ事。
「ここですね」
と、鍵を取り出しあける。
「ただいま戻りましたよー」
「お邪魔しまーす」
玄関からいい香りがする。芳香剤だろうか。わからないが、なんかとてもいい香りがするなぁと彼方は思考をやめた。
一般的な金銭感覚を持つ彼方は、結局お金持ちの孫。
目が肥えているのだ。
使われているものがいいものだ、ということはなんとなく見て取れる。
がちゃ、と音がして奥の扉から璃々がにっこり顔を覗かせていた。
「おかえりあんどいらっしゃーい。とってもゲームがしたくてそわそわしてる璃々さんだよ!」
「まずは本題からでしょう」
「わかってますぅ」
靴を綺麗に脱ぎ揃え、手招きする璃々のいる扉をくぐる。
その先はリビングとなっていて、無駄に広い空間にはおしゃれで質のいい家具が置かれていた。
グレイブルーのソファに座った璃々が、クッションを抱きしめながら二人に座るよう促す。
当然のように彼女の横に座ったゆえと、くの字に曲がったソファのはじっこに腰をおろす彼方。
驚くほどふかふかなそれに、給料の内容を思い出しそっと遠くを見つめる彼方だった。
「はい、まずはあれですね。私が見事寝過ごしたことによりゆえさんからお給料の話をしていただいたと思いますが」
「しましたね」
「あ、ガチの寝過ごしだったんですね……」
さすがにそれは聞いてない、とゆえに視線を向けたが、どこ吹く風。そっと諦め、璃々へと視線を戻す。
「命を懸けてまで戦ってほしくなかったので上に報告していません」
「っそですよね?」
「まっじでーす」
いえーいぴーすぴーす、とぴーすの一つもせず死んだ目をする璃々にぽかぁんと開いたままの口が塞がらなかった。
「まぁ、というのも昨日までの話。ひなたちゃんからいつ話が漏れるかもわからないし、夢成修の孫を弟子にしましたって報告を先日しまして。上の人間とちょちょっとお話し合いをしたら愉快なことが発覚したわけ」
愉快、と言いながらも彼女の目は笑っていない。口元には静かな笑みをたたえているが、なんなら冷え切った空気まで放っているように見える。
「なんらかの理由で後天的に資質を得ることはあるのよね。でも、それにしては夢成さんが気付かないわけなくなーい? って思って。確認したらなんとまぁ改竄の痕跡ありってことでさすがの璃々さんも内心ブリザード。爆速で夢成さんに確認したけど知らないっていうわけ。なんだよ過激派も行くところまで行ったんかおおん? って思ってたのに肩透かし食らったと同時に最悪のぱたーん露見ですよ」
まくしたてられた彼方は、少しだけ宇宙を背負ったし、内容が内容なだけにすっとたたずまいを直す。
「俺狙い、なわけないよね。じーちゃんだよね」
「多分ね? あの人、結果的に世間が受け入れたってだけで当時はかなり揉めてたっぽいし。恨みはそこかしこで買ってると思うよ。まぁあの性格だし」
あの性格、と言われたほうが納得できるのは何故なのだろうか。彼方は己の祖父が何もわからなくなっていた。
「久木さんを、娘さんを、娘婿さんを亡くした当時のあの人そりゃあもうびっくりするくらい荒れてたし、彼方くんだけは~ってそこらへんで言ってたし」
「言ってましたねぇ。でも、過激派は過激派でも、彼を崇拝する何者かの可能性もありませんか?」
「あるかもね。みんないなくなった、って言う彼から唯一の肉親である彼方くんまで消えないよう、危険が及ばないよう、って改竄した可能性もある。でもそれ、この仕事やってる人間が思うか?」
「ふーむ……。そうなるとやはり悪意ですかね?」
「私はそう思ってるけどね」
――やばい、ついていけない。
何をしゃべっているのか全く理解できなかった。
普段、いかにわかりやすく喋ってくれていたかを実感すると同時に、おずおず手を挙げる彼方。
「あのぉ……わかるように言ってほしいですぅ……」
「あ、ごめん。あーっとね、資質がないって言われて、安心してたでしょ」
「……そうですね」
その結果亡くなった親友たち。馬鹿三人組は、ただの馬鹿が残ってしまった。
ぐ、と拳を握り締める彼方に、ちろ、と大人二人が目を合わせる。
「個人差はあれど、早くても中学で資質検査をする。そこで資質があった場合、選択肢を出される。将来的に武器を取るか、取らないか。取らなくてもいい。平和に生きていい。けれど、資質を持つ以上どこかしらに命の危険があるんだよ。だから、絶対危険な場所には近付かないと思うんだ、普通は」
でも、と言葉を続ける璃々。
「仕組まれてる感じするよね。夢成さん狙いが可能性高いと思うけど……」
じ、と目を見つめられ彼方は少しだけ居心地悪く身じろぎする。
「私にはわかりませんが、璃々さん的に彼方さんは“どう”なんですか?」
「わっかんねー。いやマジでわかんねーんだよなぁ……」
つい、と視線は外された。
指先にくるくる毛先を巻き付けながら、
「上位者」
「所詮私なんて雑魚」
「いや私はつよつよだが……!?」
などとこぼす璃々についていけずゆえに助けを求めてみるけれど、彼はそんな彼女の頭を撫でることで忙しそうだった。
急に璃々がばっと顔をあげ、ゆえの手がぴくりと震える。
「っそもそも! それなら彼方くんができたてほやほやの赤子だった頃に気付いてるし! なんならもっと近くにいる夢成さんが気付いてうちらをセコムに仕立て上げるでしょう!」
「それはそう」
やっぱり会話についていけずどうすべきか考えあぐねていたが、赤子、という単語が気にかかりもう一度手を挙げる。
「あのー璃々さん」
「はいなんでしょう?」
「赤子……って、俺が赤ちゃんの時から知ってるんですか?」
「……」
ぼふ、とクッションに顔をうずめ固まった璃々。
もう一つあるクッションを顔の前にやり視線を遮るゆえ。
聞くな、と言っているようだった。
「聞いてほしくなさそうですけど、さすがに気になっちゃうというか……。あの……。二人って、何歳?」
「女性に歳を聞いたら怖い目にあいますって夢成さんから聞かなかった?」
「あー、昔の弟子からボッコボコにされたって聞きました」
「そう……」
「あ、いや、答えたくないならね、それで、ね……?」
本当は、凄く気になる。
今現在化粧をしていないだろう璃々は、普段より歳が上にみえる。普段は少しだけ垂れ目に見せているけれど、今はまるで猫のようにくりっとした造形をしている。
目元がはっきりしているぶん歳が上に見えるんだろう。あと、くまがすごい。
でもそれも、二十代半ばだとか、後半だとか。その程度だ。
逆にゆえは普段と変わらず、二十代後半程度だろうか。
大変失礼ながら、彼方はゆえのことを年下好きだと認識していた。
だって普段の璃々はもっと若く見えるから。
「ほらぁ、見た目で判断しちゃあいけないっていうでしょ? まぁそういうことにしておいて」
クッションを膝の上に置いた璃々がえへっと笑う。
「んー、まぁ璃々さんは璃々さんですよね!」
「わはーいい子、お姉さんが撫でてあげよう」
「やったあ」
彼方の前に移動する璃々に、彼も彼でにぱっと頬を緩める。
にこにこなでなで。
「普通その歳って恥ずかしがりませんかね? 反抗期をどこに置いてきたんですか?」
「あ、それじーちゃんにも言われた」
「……スゥーーー」
今度は、ゆえがクッションにうずもれている。
「ゆえさんも撫でる?」
「撫でていいですよ、ほら早く」
「はいはい仕方ないですねぇ」
ふわふわの髪がぐちゃぐちゃになっていくが、誰も気にしていなかった。
「とりあえず~」
と、璃々が頭を撫でながら左手でスマホを取り出す。
「時間はたくさんあるし、今日は休みだから仕事しないって決めてるんで、ゲームしよう!」
「さんせー!」
「職場に行くのは明日ですね。正式に社員証などもらえると思いますが、まだ学生なのでアルバイト扱いになります」
「おー、アルバイト! 俺やるのはじめて!」
その内容は命をかけたものになるのだが、残念ながらツッコミ不在。
机の上に置かれたゲーム機を手に、まずはモンスターでも狩りにいこうともくもく集中するのだった。
6
腰をひねり、拳を叩き出す。
全力でやっているのに、その顔面に届くことはない。
ならばと腰を落とし、蛇の部分でなく人間の部分を狙う。それも、軽々後方へ跳んで避けられてしまったが。
「だー、当たんね!」
「脳筋かよ考えて動けこンのダボ! メモリアは武器だけどなァ、それだけ使ってりゃいいってもんじゃねーんだよ!」
彼方の真横でビュンッと音がし、蛇人間が左に避けた。壁に当たり砕けたのは、瓦礫。
先ほど璃々が壊したものだろう。
「なっるほど頭いいね! でも当てないでね! 合わせるわ!」
「おめーが馬鹿なンだよ! 当てない努力はするけどあたしのメモリアも近接なの! ああもうっ!」
きいきい叫びながら瓦礫を拾い上げ、投擲。
先ほどと同様あっさり避けられてしまったが、避けた先には彼方がいた。
「食らえオラ!」
右の拳が腹へめり込む。重く、確実な一撃だったがまだ浅い。そう考えるより早く彼方が左手でアッパーをしようとし、ぞわりと総毛立つ何かを感じでばっと後ろへ下がった。
がぱり、と大きく開いた蛇の口から見えない何かが放たれ、彼方の左腕をかする。
「――、ってえ」
「おい、なにやってンだよ!」
かすっただけで腕がばっくりと避けだらだらと血が流れる。
そういえば、最初の一撃は璃々が大鎌で弾いていた。そうして、彼女はなんと言っていた?
はっと目を見開き、彼方が叫ぶ。
「ひなた、鎌鼬だ! 璃々さんが言ってただろ! あいつ口から風出してる! 腕、当たる直前すげえなんかこうびゅおーってなってた!」
「国語の授業を真面目にやれ! なンだよその語彙力! でもそうか、風か。初心者以下の分際でやるじゃん!」
「お前は道徳の授業頑張れよ……」
「あ!?」
「二人とも、ほどほどにねって言ってるでしょ……」
少し離れた位置にいる璃々の声は、残念ながら届かない。
やはり蛇人間は二人を相手しながらも璃々を気にかけているらしい。
ばしばし刺さる殺気に、はぁっと溜息をつきいつでも手を出せるよう大鎌を握りなおした。
璃々の考えは、こうだ。
突っ走る彼方とひなた。
相性最悪に見えるけれど、彼方に見せなかった別のメッセージには彼女の戦闘スタイル、ひいては性格など事細かく書かれていた。
ひなたは恐らく、他人が死ぬ恐怖、そしてそれを上回る拒絶心を持っている。どうせ死ぬなら仲良くしなければいいじゃない精神だろうか。
ならば大体なんでも受け入れる彼方をぶつけてしまえばいい。
ああ見えて彼方は人を見る目がある。人の地雷を見抜くのがうまいとでも言えばいいだろうか。
加えて、何故メモリアが近接なのかわからないくらい人をよく見ている。サポートがうまい、ともいえるだろう。
今もそうだ。ひなたが前に飛び出して行った瞬間から彼方はサポートに徹している。
瓦礫を投げたり、砕けて砂になったものを投げてみたり。時にはその拳を寸止めして注意を引いたりと、ひなたが戦いやすいよう蛇人間とひなたへの注意を欠かさない。
あの口の悪さとすぐ突っ走る気質は、ああやって連携する気にはならないだろう。何もわからない彼方だからこそすんなり馴染むことができる。
これがなまじっか戦闘を繰り返し生き残った職員だとそうはいかない。だからこそ璃々に話が回ってきた。
問題点としては。
「そろそろ体力の限界かなぁ?」
視線の先には、肩で息をする彼方が居た。
「おい、お前さっきまでの素早さどうした! 息あがってんぞ!」
「俺ランニングとか筋トレとか始めて一週間! 初心者以下です、どうも!」
叫び返す彼方の声に先程までのキレはない。ぜいはあと吐き出される感覚は短く、決定打を出し切れないひなたが盛大な舌打ちをする。
「休んでな初心者以下! 足手まといはいらん!」
後ろに下がり、いつでも対応できるようにと構えを解かない彼方を見て、もう一度小さく舌打ちが出た。
ひなたの武器は短刀。懐に潜り込まなければ一撃を叩きこめない代物で、素早く後ろに下がり鎌鼬を放ってくる蛇人間との相性はあまりよくない。だが、それは彼方もだ。
初心者以下と言い切った人間があそこまで動いていた。食らいついていた。
それが、ひなたのプライドをずたずたにする。
「このままでいられるかってんだ、ダボ!」
ひなたは、メモリアを選ぶときかなり時間がかかった。何を持っても気持ちが悪く、吐き気を催すものまであった。
でも、これは違った。
触った瞬間、これだと思った。
握った途端、今までの気持ち悪さが一気に消えた。
璃々は、相性がよければよいほど力を発揮すると、そう言い切った。
ならば。ならば。
「力を、貸してくれッ!」
相も変わらず蛇人間は余裕そうにしているし、注意は璃々だけに向けられている。
あれだけ斬りつけても、彼方が拳を叩きこんでも、眼中にいれられない。
「こっち見ろや、璃々さんは美人でかっこよくて強くて素敵かもしれねェけどな、あたしだって可愛いだろ!」
「そういう問題じゃないと思うぞひなた……」
短刀を構え走り出した彼女につっこみは聞こえないだろうが、思わず口走ってしまう。
がぱり、蛇人間の口が開く。
先ほどまで聞こえなかったしゅるしゅるという風の音が彼方にまで聞こえ、咄嗟に駆け出す。
「ひなた! なんか大技くるぞ!?」
「知るかダボ! 休んでろって、言っただろ!」
最悪の場合、彼女を突き飛ばせばいい。そんな彼方の思考を知らず、ひなたは唇を噛み締める。
彼女を支配するのは、悔しさだけだった。
「発動と同時なら動けねーだろ? その口、たたっ斬ってやらァ!」
助けてくれと、力を貸してくれと強く念じる。それでどうこうなるかなどひなたにはわからない。けれど、やらなければ死ぬだけだ。
てのひらが白くなるほど握り込んだ短刀がどくりと震える。
勢いよく振り下ろした相棒は、蛇の口を切り落とした。
――なのに。
「っそ、だろ……?」
「ひなた、おい、おい!」
血しぶきが舞い、体が地面へ叩きつけられる。
確かに口は切り落とした。蛇人間は呻き苦しみ、ぼろぼろ涙をこぼしている。
「喉、潰せばよかった、な……。彼方、お前初心者以下にしては、すげえよ。死ぬなよ、な……」
至近距離で鎌鼬を受けたひなたの体はぼろぼろだった。
服は破れ、皮膚も深く裂け、だぷだぷ血が流れ続けている。
「り、りりさ、璃々さんッ!」
「……かわる?」
いつの間にか横に居た璃々が、そっと彼方を伺う。
「い、え。ひなたをお願いします。あとそれと、助けるって、俺だけだったんですね」
「さてね。五分で戻るよ」
「わかりました。よぉっくわかりました。スパルタの内容に人の命をベットしないを追加してください」
「考えとくわ」
ひなたを抱えた璃々がその場から姿を消した。
文字通り、跡形もなく。
それを見届け、彼方は深く深く息を吐いた。
「そうだよな、ゲームでもデスポーンって効率がいいし、命が軽いと味方を盾にしてつっこむってよくあるじゃんなぁ?」
拳を握り構えなおした彼方は、もう一度息を吐く。
「理解できちゃうってことは、俺もそんな思考があるってことか……」
今、彼方はそれなりに混乱していた。
「ゆえさんと一度しっかり話してみたいな。面倒とか思われそうだけど」
なのに、心はどこまでも水平のまま。
「璃々さん、結構好き。話合うし、面白いし、教え方上手だし。さっきのはさすがにちょっとどうかと思う。何より見てて危なすぎるし、いつかとんでもないことやらかしそうで怖いんだ」
理解できないだけで、感情は乱されない。
「ねーえ、蛇人間さん。俺って結構酷い人間だったみたい」
ふっと浮かぶのは自嘲の笑み。
「ひなたさ、初対面から睨んでくるし口悪いし、知り合ってほんの少しだし。でもね、嫌いじゃないんだよ」
しゅるしゅる風を集める蛇人間へ距離を詰め、拳を振り上げる。
「俺、戦う理由、できちゃったかもしれない」
パチパチと、指にはめ込んだナックルから火花が散った。
「だから、ごめんね。お前に恨みはないよ」
風の集まるそこへ拳を叩きこむ。
てのひらが裂け、チリチリした痛みからじくじくと変わっていき、どくりどくりと鼓動を強く感じる。
もっと、もっと奥深くへ。喉を潰さなければ、殺せない。
痛い。けど、ひなたはもっと痛かったはずだ。
一度拳を抜き、渾身の力で蛇人間の顔を蹴り上げる。
今まで拳一辺倒で戦っていた人間がいきなり蹴るとは思っていなかったのか、それともいいダメージいが入ったのか、集まっていた風が霧散する。
バチバチバチ。火花が強くなった。
ちらりとそれを見、自然に頬が緩む。
なるほど、これがメモリアの持つ力。
「死ね、このクソボケが!」
バランスを崩した蛇人間へ迫る拳が燃え上がる。不思議と熱さを感じることはなく、そのまま振り抜いた。
確実に叩き込まれた拳から炎が蛇人間へ移っていく。
声にならない声を上げ、鎌鼬を放とうと風を集め、うまくいかず、うずくまり悶え苦しみ。
「ごめんなぁ、本当に」
そのまま動かなくなった蛇人間の前にとさりと寝転ぶ。
「璃々さんのばーか、ひとでなし、効率厨、あとえーっと、んー?」
あまり悪口が浮かんでこない。
それだけ好意的に見ているのか、そもそも悪口を言う才能がないのか。彼方は考えるのをやめた。
「戻ってきたらめっちゃ言われててウケる。効率厨は否定しないわ。てかなんかそれ燃えてない?」
ゲートを開き、いつも通り大鎌でよいしょよいしょと動かしていく。
未だぱちぱちじゅうじゅう燃えている蛇人間だったものは、表面がこんがり炭色になりかけていた。
「俺がー、やりましたー」
「へえ。そのメモリア燃やせるんだ」
ゲートを閉じた璃々が彼方の横に座り、不思議そうに顔を覗き込んだ。
「……知らなかったんですか? これくれたのに?」
「え、知らない。てかそうね、ひなたちゃんも言ってたけど説明不足が多いなぁ」
「じゃあ今説明してりりおねーさん」
ひなたのことはいいのだろうか、と少しだけ考えた璃々だったが、まぁいいかと冷たいペットボトルを彼方の頬に当てた。
「まずはお疲れ様。いちごにゅーにゅーあげる」
「わあいやった璃々さん大好き」
半身を起こし、璃々の横に座り込む。肉の焦げた匂いが充満している中新しく広がったいちご牛乳に、二人してうわっと声を出す。
「あとで話す?」
「今でお願いします。多分俺も璃々さんも忘れるし」
「それはそう。んじゃね、メモリアね。メモリアが人間を選ぶのよ。己の性質に、より近い人間を」
「まるで意思があるみたいな言い方ですね」
「あるよ。ひなたちゃんは力を貸してって言った。気付いてた? あの時刀身が白く光ってたし、今まで通らなかった刀が通ったでしょ。請われた刀が、力を貸したんだよ」
じゃあ、と指に着けたままのナックルに視線を落とす。火花はもう出ておらず、普通のナックルにしか見えない。
「彼方くんは、何を思ってた?」
「……あんま、必死で。でも、そう。ごめんねって思った。恨みなんてないのに、命を奪うから」
「そう……」
ごくごくといちご牛乳を飲む。ペットボトルについた水滴が傷口に染みて、泣きそうになるのを必死に我慢した。
「命って軽いですね」
「軽いよ。どこまでも」
「なのに、奪った命は、重いですね」
「……軽いよ、どれも一緒。慣れてしまったら、みんな同じ」
璃々が笑顔を向ける相手の命も、同じなんだろうか。
そんな考えには、きっと蓋をした方がいい。
「ゆえさんも?」
結局、聞いてしまうんだけれど。
「うん、同じ。ゆえさんが死ぬときは私も死ぬ時だから、あんまり変わらないかな」
「……そっすか」
「そっすよー」
やっぱり、聞かなければよかった。
心の底からそう思う彼方だった。
車に戻った後しこたまゆえに嫌味を言われ、目が覚めたひなたからはぎゃんぎゃんと吠えられ、帰宅した後修には溜息をつかれた。
傷口はゆえの持つ摩訶不思議アイテムによって綺麗に治療されたし、ひなたも同じく治療され、綺麗さっぱり傷痕すら残らなかったらしい。
これは車で連絡先を交換したので、さっき送られてきたメッセージに書かれていたことだ。
メッセージの一割は嫌味、三割はひねくれまくった感謝、残りは璃々への賞賛だった為一言「そうかおつかれ」とだけ返した結果既読無視されている。
恐らく、しばらくはスマホの前で吠えているはずだ。
そして、今。
祖父の部屋の前で、ノックしようと拳を握り込んだまま動きが固まっていた。
すうー、はあー。
何度目かわからない深呼吸と同時に、扉が開いた。
「いやいつまでそうしてんだ。何か用事か?」
「いや、えっと、あの……」
うろうろ視線を彷徨わせ、きゅっと唇を結んだあと、覚悟を決め口を開く。
「説得、しにきた」
「助けられた命を捨てにゆくのか?」
鋭い視線に、ごくんと唾を飲み込む。
「命が軽いって気付いた。重いって気付いた。璃々さんが言ったんだ。弱い人間が守るなんてお笑い種。ひなたも言った。俺を守るほど強くない」
「……それで?」
「最初に会ったソムニウムに、言われた。お前の魂は特別だ、って」
修が目を見開き、ぐっと拳を握る。
「じゃあさ、俺きっとまた狙われる。その時近くに居るのが強い人ならいいよ。でも、一人なら? 武器を持たない人間だったら? その人間が死を恐れない善人だったら? ……また、誰かの命を犠牲に生き永らえてしまうかもしれない」
「……」
「じーちゃん。俺、強くなりたい。一人で生きる強さが欲しい」
握られた拳から力が抜け、ぽん、ぽん、と彼方の頭を撫でる。
「そう言って、娘は死んだ」
「――」
「一人で生きると言った娘が結婚すると言い出した時、嬉しかったよ」
懐かしむような、幸せそうな笑顔に彼方の胸がきゅっと締め付けられる。何も、言葉が出てこない。
「お前を抱き上げる娘は幸せそうだった。旦那を眺める視線には慈しみが含まれ、向ける笑顔は幸せそのものだった。……璃々の笑顔を思い出せ。わかるだろう」
「うん……。ゆえさんに、向ける笑顔、だね」
ふうっ、修が息を吐き出す。
「彼方、お前があの子とかぶって見える。生き急いで見える。それでも、止まらないんだろう。似ているな、本当に」
「……ごめん、ごめんねじーちゃん。本当に、ごめん」
「うるせーばーか。僕は悲しいからしばらく引きこもるわ。あの二人についてって勝手に強くなってろ」
「ありがとう、じーちゃん」
「……ふんっ。勝手にしろっ」
拗ねたように、強く扉は閉められた。
修の目にはきらきらしたものがあって、もう一度、ありがとうと呟く。
感謝以上に罪悪感があった。
これが、己を貫き通すということなんだろうか。ならば、この先もっとたくさんの罪悪感を抱くのだろうか。
考えながら部屋に戻った彼方がなんとなくスマホを手に取る。
するとそこにはゆえと璃々から別々に連絡が来ていた。
『おめーのじーちゃんなんとかしろ』
『嫌味と泣き言と孫の成長を喜ぶ長文メッセージを送られても困るのですがあなたのおじいさまはどうなってるんですか?』
罪悪感は、秒速で消えていった。