朝九時、ソムニウム対策ビル五階。
 クーラーのよく効いた部屋に、彼方たちは案内されていた。
 机に座り腕を組む三十代半ばの男……、市井昇が、つらつらと説明事項を話す。
「ソムニウムの情報は随時更新されていますので、通知が来た際は確認をお願いします。二度通知が来た場合は仕事となります。できればスマホの位置情報をオンにしておいてください。迎えがスムーズになりますからね。ですが必ずしもというわけではありません。特に彼方さんは璃々さんの弟子となったわけですから、璃々さんに連絡すれば事足りるので」
 現在はスマホにインストールするアプリについて話しているものの、それを真剣に聞いているのは彼方一人だけ。
 その横に立つゆえは話を聞いているように見えて何も聞いていないし、壁に背を預けている璃々はあくびを隠しもしていない。
 疲れ切った表情を隠しきれていない男が彼方にカードを渡す。
「そして、これが社員証です。とはいえあなたはアルバイトですから、権限は低いです。従業員用出入口のカードキーもこれを通せば開きます。あとは……、璃々さん、くれぐれも頼みましたよ」
「ほいさっさー」
 飄々とした笑みを浮かべる璃々に吐き出される溜息が二つ。
「璃々さん、もう少し真剣にしてください……。いえ、いいんですけどね、あなた強いですから」
「璃々さん、仮にも上司の前です。もう少し真面目にしないと給料減らされますよ」
「それは困るわ」
「しませんよ!」
 じゃれる三人を興味深そうに見つつ、彼方がカードを受け取る。
 黒いカードの左下に彼方の名前が印字されているが、他には特に何も書かれていない。
「めっちゃシンプルですねー。これ。あ、ついでになくしたらどうなります?」
「戦いの最中なくすなどということは正直よくあります。ですが、それもタダではありません。まぁつまるところ弁償ですね。とはいえ、アルバイト含め職員の給料は高いですから支払いに困ることはないでしょう。給料から天引きします」
 カードをまじまじ見つめていた彼方が、なるほど。と頷く。
「ですが、くれぐれもなくさないようにお願いします。なくした際は隠さず連絡を。こちらでカードキーの役割などを止めなければなりませんからね」
「わかりました、気を付けます!」
 びし、と左手で敬礼した彼方に、ゆえがくすりと笑う。
「手、逆ですよ」
「あれ? そうだっけ?」
「獲物を扱うのはまぁ大体右手でしょ? だから、自分は武器を持っていない、危害を加える気はない。って意味合いも込めてるんだってさ」
はえ~なるほど」
 次は右手で敬礼した彼方を見て、市井がこっそり溜息をつく。
 職員は曲者ばかりなので、彼方のようにまっすぐな人間は少ない。いないわけではないけれど、珍しい部類になる。
 なにより“あの”夢成修の孫。
 正直、どう接していいのかわからなかった。
「お話のところ申し訳ないんですけどね、仕事ですよ。今回は里中さんも同行です」
「おっ、ひなたも! えーっと、どこに行けば?」
「とりあえず食堂でお待ちしていると思いますよ。あーあと、璃々さんは少し話があるので残ってください。ゆえさんは夢成さんを案内してあげてくださいね」
「了解です」
「了解でーっす」
「さ、行きますよ彼方さん。……それでは失礼します」
「失礼しましたー!」
 ゆえに促されるまま退出した彼方を確認し、にこぉっと笑みを深くする璃々。
「はいはいそれで? 内緒のお話?」
「内緒のお話です。あー。璃々さんはご自身のことをどこまで?」
「なーんにも。ああ、年齢は聞かれたけど。まぁ答えてないかな」
 その答えにほっと息を吐くのを見て、璃々が笑みを消す。
「それはよかった。憧れの女性を追いやりたくはないので」
「さーすがにね? 機密事項ってんのはわかってるよ。でもそのうちばれると思うなぁ」
 どさり、と机の上に腰を下ろし唇を触る。
 それを咎めることなく、市井はまた大きく息を吐いた。
「璃々さんに恩のある人間は、僕を含めたくさんいると思います」
「うん、知ってるー」
「同時に、疑問に思っている人間も多い」
「それも知ってる」
 市井の表情が歪む。
 どうして理解してくれないんだと、そう言いたげに。
「あなたは、自分が特殊だとわかっておられるでしょう」
「まあ……さすがに」
「ならば何故よりにもよって夢成修の孫を弟子にとったんですか……」
「成り行き」
「そうですねそういう人でしたね……」
 人差し指を唇から離した璃々が、見惚れてしまう程の綺麗な笑顔を作る。
「知ってるでしょ。私、夢成さんに恩があるの。あの子あのままじゃ死んじゃう。夢成さんをよく知ってる私だからこそ師匠にぴったりでしょ?」
「……ほんと、そういう人でしたね」
 諦めの滲んだ声が室内に溶けていく。
 それからしばらく続いた沈黙を破ったのは、市井。
「最近なにやらきな臭さを感じます。ソムニウムも強くなっている。あなたはどうか、人のままでいてください」
「……。そうね、考えておくわ」
 すとん。机からおりた璃々がすたすたと入口へ向かう。がちゃりと扉を開けたところで、市井が口を開いた。
「ほんと、お願いしますよ」
「……」
 ひらりひらりと手を振り出て行った彼女に、やっぱり溜息を吐く市井だった。

 

 ゆえに先導され辿り着いたのは食堂。
 時間が時間だからかそこまで人がいるわけではないが、それでもぽつらぽつら食事をとっている者はいた。
 彼方がきょろりきょろりとひなたを探せば、すぐに見つかった。
 染められた赤毛は、それなりに目立つ。
 にこにこ顔の彼方が彼女に近付き、ぽんっと肩を叩く。
「ひーなたっ、今日一緒に頑張ろうな~」
「んっ……」
 もぐもぐごっくん。
 鮭のムニエルを飲み込んだひなたがぎっと彼方を睨みつける。
「お前な。マジでお前な。食ってる時に話しかけるのはまぁいい。いきなり肩叩くのはびびんだろやめろや。喉につまりかけたわ」
「あ、ごめんね大丈夫?」
「まぁ大丈夫。ちゅーか今日の相手お前かあ。璃々さんいンの?」
「いるよ、今市井さんが話あるからって引き留めてるけど」
「私もいますよ」
 見守っていたゆえが声をかければ、ひなたはびくっと肩を揺らした。
「い、いたんですね……。こんにちはゆえさん」
「はい、こんにちは」
 ばくばくする胸をおさえ、すうはあ深呼吸して再びムニエルを食べ始めるひなたに、そわそわした彼方がムニエルをちらちら見ながら声をかける。
「ねね、一口ちょーだい。めっちゃ美味しそう」
「はあ? まあいいけどよ。ほら」
 一瞬嫌そうな顔をしたひなたがそれでも身を箸で切り分け、そのまま彼方の口に放り込む。
 もぐもぐ噛み締めていくにつれ、彼方の表情はぱあっと明るくなっていく。
「なーにこれすんごい美味しい。ありがとひなた」
「あいあい。……あ、そうだ今日のはなんかぼちぼち強いとか聞いたわ。この間あのざまだったし……、まぁうまいことやろうや」
 言い切った後気まずそうに目を伏せ、もくもくとムニエルを咀嚼する。
「ん、そだね。俺も頑張るよ」
 ああそうだ、というゆえの声に、二人が視線を向ける。
「お二人ご指名ということは、恐らく璃々さんから色々指導が入ると思いますよ。先日は、能力の一端を使いこなされたんでしょう?」
「あたしは……どうなんでしょうか。ただ必死で、あまり自覚がないんです」
「ナックルから火花ばちばちーってなってぶわーってソムニウム燃えたんだよね。んでもあれ一端ってことは、もしかしてもっと強くなるってことですか?」
「そうですね。私は適性なしなので詳しいことは知りませんけれど、璃々さんの戦いは幾度か見たことがあります。基本能力を使わずとも勝てる彼女ですが、全部が全部そうとは限らないですから。まぁ、その辺も彼女が説明するんじゃないですかね」
 ぽいっと丸投げしたゆえになるほどと頷き、口を開けてムニエルちょうだいアピールをする彼方。仕方ねぇな、と再度口に放り込んでから最後の一口を完食し、ひなたが席を立った。
「下げてくる」
「ほーい。ごちそうさま」
「いってらっしゃい」
 彼女が離れたのを確認し、それまで座っていた椅子に腰を掛けゆえをちょいちょいっと手招きする。そうして顔を寄せたゆえに、彼方がこしょこしょ耳打ちする。
「なんかすごい素直になってません? どしたのあの子」
「プライドの高い人間は総じて認めるということが苦手ですからねぇ。でも、彼女は高いなりに他者を認めることができるんじゃないですか? あと、同い年のようですし」
「ふーん……。そんなものですか?」
「そんなものですよ。多分ね」
「ゆえさんも?」
「……私は別に。凄いものは凄いと素直に思ってますよ」
はえー。ゆえさんおっとな~」
「ふふ」
 と、ここできゃあっとひなたの声があがったので自然とそちらを見る。
 入口付近にいる璃々のもとへひなたが驚きの素早さで近付き、きゃあきゃあと賞賛の言葉や感謝を連ねていて、相変わらずだと二人して顔を合わせた。
 もう一度女性陣を見れば、璃々が助けを求めてじっとりした目をこちらに向けていたものだから、急いでそちらへ向かう。
「璃々さんさっきぶりー。お仕事頑張りましょうね!」
「おうおう、今日は学生組に頑張ってもらうからね。私は後方師匠面であれこれ口出しするから」
「踏み込みが甘い! って?」
「あれねぇ、好きだけどねぇ……」
「はいはい、話が脱線しますよ。車へ行きましょうか。詳しくはそちらで」
 考え込みそうになった璃々の手を引き、ゆえが先頭を歩く。
「あの二人ほんっと仲いいよな。さすが事実婚
事実婚だったの……。あーでも璃々さんとゆえさんほんっと素敵じゃね? あんな彼氏欲し~」
「彼氏いるぅ? 俺恋人の必要性がよくわかんねーんだけど」
 心の底からわからないという彼方の声に、ひなたが「はぁあ?」と唇を尖らせた。
「いる、絶対いる。疲れ切ったところを甘やかしてくれるイケメン彼氏いてみ? 最高じゃん?」
 ふむ、と脳内に妄想を膨らませる。
 命がけでバイトを終わらせ、疲れたから会おうと連絡する。会って適当に会話を膨らませ、よしよしと撫でてくれるような……。
「いや璃々さんじゃん」
「は?」
「いやね、考えてみたの。お仕事終わって疲れた~って言ったら撫でてくれるような相手。璃々さんがしてくれるし……。ゆえさんもしてくれるし……。いらないかな」
「は? 贅沢か? ソムニウムの前にてめーを殺さなきゃいけねーみてえだなぁ……?」
 手にしっかり握り込まれた短刀を見て、さすがの彼方も冷や汗を浮かべ手をぶんぶん振る。
「過激派コッワ! ぷるぷる……殺さないで……悪い彼方じゃないよ……」
「百合に入る竿役レベルに邪魔なンだよてめぇ……」
「おんなのこがさおやくとかいわないで」
 女の子でもそういうの、知ってるんだ。という感想と、女の子に夢をみていたい気持ちが綯い交ぜになった結果、耳に手を当てダッシュで逃げ始める。
「百合に混ざる男はギルティだけどもうちょっと可愛い言い方して! あとそういうの読むんだね!」
「待てコラ逃げンな! 女の子が可愛いだけの生き物だと思うなよ!」
 走り去る二人に、大人組がくすくす笑う。
「私も普通に読むよ~」
「彼方さん、そのままひなたさんを車まで案内してあげてくださいねー」
「聞きたくなかった! 案内は任せてください!」
 全力で車へと逃げる。
 時折ちら、ちらと後ろを振り返れば短刀こそ納刀していたが凄まじい形相で追いかけてくるひなたが見え、一定の距離を保つよう気を付けながら走って、走って、やっと車に辿り着き足を止めた。
「ひーなたっ、なっ、落ち着いて。今日もほら~、多分終わったら璃々さん撫でてくれるって。だからほら、な?」
 追いついたひなたは、少しだけ考えるように口を尖らせ、しぶしぶ頷く。
「まぁ、そういうンなら? 先に撫でてもらうのはあたしだからな」
「あ、はい。どうぞどうぞ」
「てかおめー女に興味ないわけ? ゲイ?」
「なわけ。女の子は可愛いと思うよ。ただ、親友と三人で馬鹿やるのが何よりも楽しかったっていうか? ……うん、そだね、そんだけ」
「ふうン……?」
 表情に影を落とした彼方を胡乱げに見たひなただったが、車に背をあずけぼんやり空を見上げる。
「ま、いいと思うけどね。つかてことはおめー童貞か?」
「どどど童貞ちゃうわ」
「あっは、答えじゃん」
 けらけら笑う彼女に、ふっと彼方も口元を緩める。
「俺の友達はよく童貞捨てたい彼女欲しいって言ってたけど、そんなわざわざ求めなくたってさ、好きになれなきゃ続かないだろうし、だからって遊びとか嫌だし」
「へえ。案外しっかりしてンのな」
 つい、と寄せられた感心を含む目に、苦笑いで肩をすくめる。
「もう一人の友達、こっちはなんか無駄にむっきむきで怖がりだったんだけど、ギャップがいいとかって結構モテててね。童貞は捨ててたし彼女はいたんだよな。まぁなんか続かないんだけど」
「へえ、そらまたなンで」
「俺たちと遊ぶのが楽しいから彼女放置してふられるってさ。放置ってか、すまないその日は彼方と遊ぶんだ……。とかって断るから」
「あーそら駄目だ。頻度にもよるけどよぉ、彼女って特別感あるだろ? そいつの特別は自分じゃなくて彼方なンだって思っちまうわ」
「だよな。まぁ、ってわけで、俺たちはずっと三人だったんだよ」
 それに、と彼方は笑う。
「今はほら、バイトで忙しくなりそうじゃん。俺、強くなりたいんだよね。俺が好きって思えるやつを守れるくらい強くなりたい。誰も死なせたくないんだ」
「おまえ……。いや、いいわ。そっか、じゃあ一緒に頑張ろうな」
「おうよ!」
 どちらともなく差し出された手を強く握りしめる。
「ま、俺初心者以下だから色々教えてちょーだい」
「根に持ってんのか? まぁしゃーねーし色々教えてやるよ」
 す、と離された手。
 少しだけ照れ臭そうにしたひなたを、彼方はにこにこ笑顔で見つめる。しばらくして、べしりと頭をはたかれてしまうのだが。
「おうおう、じゃれてんねぇ。車乗り込みなー」
「仲がいいですねぇ。それでは行きましょうか」
「はーい!」
「はい!」
 元気のいいお返事が二つ。
 璃々とゆえは顔を合わせ、くすりと笑んだのだった。