あかりちゃんとゆかりさんの話。
取りこぼしてしまうような衣擦れの音がやけに耳に響く。
今からこの人とするんだ、という緊張感で感覚が研ぎ澄まされているのかもしれない。
(……ああ、そうか)
考えて、ようやっと気づく。
かつて憧れた女と今からセックスするという事実に、緊張しているんだ。
ゆっくりゆっくり、逃げるように時間をかけて服を脱ぎながらちらと横目で彼女を見る。
澄まし切った表情は慣れ切っているようで、経験の浅い自分とは大違い。
心臓は今にも壊れてしまいそうなのに。
世界の音はこれだけで構成されているのかしら? なんて馬鹿なことを考えてしまうくらい、高鳴っているのはきっと自分だけ。
それが、少しの虚しさと安堵をもたらしてくれる。
「あかりちゃん、手伝ってあげますよ」
綺麗に畳まれた服が見えて、次に、ゆかりさんの顔がドアップで……。
「うぇっ? いやいやそんな、大丈夫、大丈夫」
どこを見ていいのかわからず、うろうろ視線を彷徨わせる。
引き締まった綺麗なおなか、控えめな胸、毛穴の一つも目立たないすべすべの肌。
無駄についた脂肪のせいで男ウケだけいい自分とは大違いな、美しい体。
「綺麗ですよ、あかりちゃん」
ゆるやかに描かれた弧が、長い睫毛が、高い鼻筋が、近付いて。
……そこから先は、あまりよく覚えていない。
ただ、夢をみていたんじゃないかと思う。
唇は苦くて、今彼女が吸ってる煙草の味がした。
キスはレモンの味とか聞いたことあるけど、やっぱり嘘じゃない。
フロントに繋がる電話を手に取った彼女が、
「一名出ます」
と告げ、受話器を置いた。
「……じゃ、私はこれで。お金は置いておきますから、泊まるなり、好きにして下さい」
「あ……。うん、わかった。またね、ゆかりさん」
「……」
またね、は返してもらえなかった。
どこまでも美しい感情の乗らない笑顔が好きだった。
でも、今は、少しだけ怖く感じる。
鍵の開いた扉に吸い込まれて行った彼女は、どこまでも無機質だ。
体を重ねた憧れが現実にいると痛感した。
なのに、ふわふわのこる余韻が、夢だったのではないか? と訴えかける。
ふ、と目についたのはテーブルに残されたメモ用紙。
お世辞にも綺麗とはいえない、されど汚いという程でもない癖の強い字で書かれた電話番号。
くしゃり、紙を握り締める。
どうせ連絡してしまう。
だって、これを逃せば二度と会えなくなるかもしれないから。
「酷い人……本当に、ひどい、ひと……」
どういう意図でここへ連れてこられたのか。
ただやって捨てるだけなら番号なんて置いて行かなければいいのに。
もっと、一緒に居てくれてもよかったのに。
消え失せた余韻が、胸に残った赤い痕が、現実だと訴えていた。
案の定というべきか、自然に指が電話番号を押していた。
その後もずるずると会って、置いていかれて、寂しさだけが募って。
意地でも会おうとは言わない。
でも彼女はそんな意地を笑うようかのように会おうと言ってくるから、どうにもこうにも心が乱されていく。
してる間は、大切にされているのに。
普段の無機質はなりを潜め、甘く優しい声に、表情に、おかしくなってしまいそうで。
今だってそう。
キスをしながら頭を撫で、ゆっくりゆっくり、撫でるように乳房を触って。
「……ゆかり、さん」
「あ、すみません、痛かったですか? ……あかりちゃん?」
ああ、今にも泣きそうだ。
どうして心配そうな顔をするんですか。
どうして、優しくするんですか。
どうして……、置いていくんですか。
「置いて、いかないで……」
「……」
困ったような、無機質な微笑み。
そんなものが見たいわけじゃない、でも、謝られたいわけでもない。
現実逃避をするように、何も見たくないと彼女をただただ抱きしめる。
「困った子ですね」
ベッドに散らばる髪を踏まないよう注意しているのがわかる。
それで、誤魔化すように頭を撫でるんだから、もう。
「……今日は、やめておきますか?」
何故だろう、ここでやめたら、彼女がどこかへ消えてしまいそうな気がして。
「ううん、だいじょうぶ。ごめんなさい」
「そう……」
諦めに似た声が頭上から降り注ぐ。
必死に頭を振る自分は、きっと滑稽なんだろう。
あれから、更に体を重ねた。
何も触れることなく、ただ、快楽に身をゆだねるだけの関係。
それでいいんだ、きっと、いいんだ。
だから、これで終わりにしよう。
震える手で電話帳を開き、結月ゆかりを探す。
何度か間違えて他の人をタップしてしまい、慌ててタスク切り。
そんなことを繰り返し、やっと、コール音が鳴り始める。
どきどきと緊張したまま一回、二回、三回……。
もう諦めようか。
そう思った瞬間、コール音が途絶えた。
「ゆかりさんっ、私、私……」
『ただいま留守にしております、御用の方は……』
「あ……」
す、と体が冷える。
何をしているんだろう。
何がしたいんだろう。
スマホを耳から離し、赤いそれを……。
『もしもし、すみません、お風呂に入っていまして』
聞こえた声に、寒さはなくなっていた。
「ゆかりさん……」
『……また、泣いてるんですか?』
困ったような、無機質な声。
義務的に声をかけられているんじゃないかと、いつも思う。
憧れを抱いていた頃だってそう感じていた。
理想の体現。
自分の中の彼女は、まさにそれだったから。
「まだ、泣いてない……」
『じゃあそのうち泣くんですかね? だめですよ、泣くのはベッドの中だけでいいんです』
「ゆかりさんの意地悪……ひどい、ひどいよ……」
『……』
うぅん、と声が聞こえる。
苦い笑いと、ほんのりあたたかな眼差し。
脳裏によぎったそれは幻なのに。
『あなたは、昔も泣いていましたね』
「え?」
『思春期の猿共にからかわれ、一人泣いていた。……もう、忘れてしまいましたか?』
ぶわりと情景が蘇る。
そうだ、彼女に憧れたきっかけが何だったか。
無駄についた脂肪をからかう男子は多く、向けられる視線も鬱陶しく、女子はそんな自分を遠巻きに見つめていた。
告白を受けても駄目、蹴っても駄目。
息苦しさで、一人になれる場所を求めて泣いていた。
『わたしね、あなたが羨ましかったの。だって、わたしの好きな子はあなたが好きだった。なのにあなたったら、無邪気に懐くんだから』
「――」
呼吸ができなくなった気がした。
憧れていた人間が地に落ちて、ううん、違う。
はじめから、同じところに立っていた。
『この歳まで生きて、結局胸は育たなかったし、あの人もどこかで幸せになっている。……ちょっと、いじわるしたくなっただけなんですよ』
どう、返事をすればいいのだろう。
迷っていると、いつもの苦笑いが耳朶を打つ。
『わたし、あなたは結構気に入ってたんですよ。でも、嫉妬には勝てませんね』
すぅっと息を呑み、彼女は続ける。
『もう、終わりにしましょうか。こんな不毛な関係は』
終わり。
その言葉を理解できなかった。
しばし沈黙が続き、じゃあ、とゆかりが声をあげる。
『さようなら、あかりちゃん』
「まっ、て……まって……。憧れなの、憧れだったの。私、私、普通に、仲良くしたかった……」
『……ごめんなさいね』
ぷつり。
物言わぬスマホを握り締め、もしもし、もしもしと声をかける。
耳から離せば、画面はすっかり真っ黒に染まっていて、急いでロックを解除する。
もう一度、もう一度話さなきゃ。
最初とは違う意味で震える指先が彼女の電話番号をタップする。
けれど。
ツー、ツー、という無慈悲な音が聞こえ、だらりと腕をおろす。
「ゆかりさ、ひどい、ひどいよ……、なんで……わたっ、私、あの頃みたいに……」
ただ、無邪気に笑い合いたかっただけなのに。
困ったように笑う彼女が好きだった。
ちゃんと相談に乗ってくれる彼女を信頼していた。
都合のいい話だ。
さよならを告げようとしたのは、自分だったのに。
すすり泣きが、静かな部屋を満たしていた。