10


 本社に戻り、報告の為五階へ向かい、コンコン、とゆえがノックをする。
 ややあって聞こえた返事と同時に扉を開ければ、疲れ切った表情の市井がこめかみをぐぐ、とおさえているところだった。
「ああ、お疲れ様です。報告でしたらあらかた璃々さんから受けましたよ。それと、ゆえさんはしばらくその二人の専属となっていただきます」
「は……?」
 有無を言わせない言葉に、いや、実際命令なのだろう。
 しかして突拍子もない言葉に間の抜けた音が出てしまう。
「あ、いえ、すみません。どういうことでしょうか」
「璃々さんはしばらくお休み、ということです。安心してください。璃々さんがいる前提の仕事ではなく、ちゃんと実力に応じた仕事を回しますから。寧ろ今までがおかしかったくらいですよ。はあ、嫌ですね。璃々さんからもたくさん嫌味をもらってしまいました」
 言うだけ言って、こめかみから手を放す。
「あ、あの……」
 おずおず、と口を出した彼方は、市井の表情を見てぐっと口をつぐむ。
 同情が、そこにはあった。
 憐れむような視線を遮るようにひなたが一歩、前に出る。
「その言い方だと、まるで璃々さんが戻らないように聞こえましたが」
「さあ、どうでしょうね……。あの方の考えることは、わかりませんから。まあ、ともかく今日、明日はお休みにしておきます。話は、以上ですよ」
「……失礼しました」
「ゆ、ゆえさん……」
 気を使う視線が、三つ。
 どうにもこうにも、やってられない。
 はぁっと隠しもせず溜息を盛大に吐き出し、ゆえはすたすたと部屋を後にする。
「失礼しました」
「……あ、ひなた。あとで追いつくから」
「ん。わあったよ。任された」
 ばたん、閉じられた扉に、溜息が一つ。
「彼方さん……、璃々さんがどこへ向かったか、ご存知ですか?」
「いえ……。俺は何も……。市井さんは、知らないんですね」
「あの方は、いつもそうです。上の無茶ぶりに挟まれた私を気遣って、青葉璃々の命令無視にしろと言う。今回は、誰を想って行動しているんですか?」
 質問は質問で返されてしまった。
 車で移動している間も、この部屋に入るまでも、ずっと考えていた。
 彼女は何を思って行ってしまったのか。
「わかりません……。俺、わかんないです。ソムニウムは、璃々さんなら救えるって言ってました。それも、わかりません」
「そう、ですか。彼方さん、知っていますか?」
「何を、ですか?」
「誰かを想って行動したその裏では、絶対的に誰かが苦しい目に合うんですよ」
 璃々さんは、と彼は言う。
「自分が悪者になっていれば全部解決すると思っている。そうして、実際そうだ。私もそれに救われた。じゃあ、彼女の尊厳は、誰が守るんでしょうね」
 椅子から立ち上がり、何も言えずにいる彼方の肩をぽん、と強く叩く。
 それは璃々と違って、少しだけ痛くて。
「もう、帰りなさい。彼方くんや里中さんが居るのにあんな仕事を回すのがおかしいんだ。……だから、気にしなくていい。それに、彼女なら大丈夫」
「大丈夫、って、なんで言えるんですか? 攻撃、もらったんですよ……」
 泣きそうな声に、もう一度ぐりぐりとこめかみをおさえる。
「彼女は死にません。彼女自身が言っていました。はあ、申し訳ないですが、後処理が多くてね」
「……すみませんでした。失礼しました」
 部屋を出て、扉に背を預ける。
 自分が行かなければ。
 それだけが、胸を占めていた。

 

 早足に先を行くゆえをなんとか追いかけていると、彼は自動販売機とベンチが置かれている場所でぴたりと止まった。
「何か飲まれますか?」
「え、いや、ええっと……」
「何か聞きたいことがあるんでしょう?」
「……えっと、じゃあ、ぶどうジュースで」
 ぶどうジュースとコーヒーを購入し、どっかりとベンチに座り込むゆえ。
 普段の余裕があるようで、一切ない。
 彼方に任せろと言った手前頑張るつもりではある、だけれど、ひなたは自分が直球でしか物が言えない自覚がちゃんとあった。
 傷口に塩を塗ってしまうかもしれないと思いながら、そっとその隣に腰をおろした。
「璃々さん、戻ってくると思いますか……?」
「さて、どうでしょうね」
 そう言いながら渡されたジュースは冷たい。
 それと同じくらいひんやりとした汗が背中をつたっている気がして、言葉も選べなくて、ひなたは開き直ることにした。
「帰ってくるって、信じてますか?」
「……嫌な聞き方しますね」
「すみません。あたし、ごちゃごちゃ考えンの苦手で、言葉を選ぼうとすると、詰まっちゃうンす」
「なるほどね。はあ、信じてるか、ですか」
 かしゅ、とプルタブを開け、ブラックコーヒーで喉を潤す。
 缶の離れた口元は、弧が描かれていた。
「そんなの当然じゃないですか。勿論、何も言われないのはまぁ……、ちょっと悲しいですけれど。それでも、私が信じなくて、誰が彼女を信じるんです?」
 一瞬、言葉が出てこなかった。
「いいなぁ」
 そうして出た言葉がこれだったので、あっと口元を覆う。
「そうですか?」
「えっと……、はい。だって、お互いに信じあってるってことじゃないっすか」
「信じてる、ね……」
 苦笑を浮かべるゆえに、なんとなく触れたくないなぁと思いつつ。
「違うンですか?」
 結局触れてしまうひなただった。
「さあ。まぁ、そうだと思いますよ」
「……最初璃々さんと会って、怪我しちゃったとき。お詫びだーつって、飯奢ってもらったンです」
「ああ、そういえばそんなことを言っていたような」
 思い出すように遠くを見るひなたに、ただ黙って続きを待つ。
「璃々さん、ゆえさんのこと大好きなンですね。ゆえさんが羨ましくて。璃々さんから好かれてるあなたが、羨ましくて」
「んん……、なるほど?」
「あたし、あの人に助けてもらったンすよ。六年生の時。お姉ちゃんはあたし守って死んで、あたしも死ぬかと思って、でも、あの赤色に助けられた。惚れたンす。だから、髪も、化粧も真似て、この仕事はじめて」
 ふにゃ、と笑うひなたは、誰がどう見ても幸せそうで。
「あ、惚れたっても別に恋とかじゃねーから! あっいやじゃないです! 絶賛彼氏募集中なンで!」
「はあ、聞いてませんけど」
「うは辛辣……」
「だって璃々さんが好きなのは私でしょう?」
「ンンン、推しカプ幸せになってくれェ……」
 唸るひなたに、ゆえが、んー、と声をあげる。
「じゃあ、つらいことを話してくださいましたし、私からもひとつ」
「えっ推しカプ情報ですか、聞きます」
 やっぱりやめようかな、と思いつつもゆえは口を開く。
「私、自己肯定感低いんです」
「解釈の一致じゃん……」
「……でもまぁ、ほら。あの人は、言動で、行動で、全力で好きって伝えてくれるでしょう?」
「あー、確かにそうですね」
「信じちゃいますよね」
「……」
「生きてますか?」
「死んでるぅ……」
「これだから供給に飢えたオタクは……」
 ちら、と廊下の奥を見ると、今にも死にそうな表情をした彼方。
 こちらはひなたと違いてこずりそうだ。
 出かけた溜息をぐっと我慢するゆえだった。

 

 
 右手に持ったコンビニの袋がきらりと月明かりを反射する。
 歩く度かちゃかちゃと音が鳴る袋の中には、手土産である酒がこれでもかというほど詰め込まれている。
 正直重すぎて怪我をした左腕に響くのだが、それはそれ。
 絶賛行方不明中だと思われている青葉璃々は、そこそこの機嫌で歩いていた。
 そもそもな話、彼女にはその自覚がない。
 今も、ただ目的地へ向かっているだけで、しっかり帰るつもりがあるのだ。
 そんな彼女の向かう先は、郊外にある一軒家。
 あの後いくつか知人の元を訪ねた璃々だったが、結果は散々なもので求めているものは手に入らなかった。
 最後の手段として、あまり会いたくないような、会いたいような、そんな相手へ連絡を取った結果ここにいる。
 ぴんぽーん、と呼び鈴を鳴らししばらく待っていると扉が開く。
 中から現れたのは長身の男で、黒い髪がぴょこぴょこ跳ねていた。
「おはよーございます」
「夜だけどおはー」
 低い声は少しだけ掠れていて、寝起きだとうかがえる。
 少しばかりぼんやりとしている彼の目の前にコンビニの袋を持ち上げれば、ぱっと目を輝かせたけれど。
「おみやげ」
「さっすが璃々さんさいっこう!」
「はいはい、失礼しますね~」
「どうぞどうぞ。ちゃんと片付けたんで綺麗ですよ。まぁ途中で寝落ちしたんだけど」
「かんかんかーん、夜ですよー」
「それ朝に言うやつ」
 彼の部屋に通され、適当な場所に座れと言われたので遠慮なくベッドにダイブしたまま足をぱたぱたしていれば、呆れたような視線が突き刺さる。
「座れって言ったんですけど」
「いいじゃん別に減るもんじゃなし」
「いーや減りますね」
「何が?」
「え? なんだろう……。ベッドの寿命?」
「そんな簡単に減ってたまるか」
「それはそう。……で、急にどうしたんですか?」
 ぎしり、とスプリングが軋み、少しだけベッドが沈み込む。
「んー。しーちゃんにお願いがあってー」
「しーちゃん言うな」
「紫焔くんにお願いがあってー」
 ぱたぱた、ぱたん。
 足を動かすのをやめ、よいこらせと座り込む。
 そうして手に握り込んでいるのは、腕。
 今日大鎌で切断した、マジクと名乗ったソムニウムのものだ。
「これ食べて」
「めっずらしい。俺が食べるのそこまでいい顔しないのに」
「悪食はね……。いや能力なのはわかってるけど、限界がいつ来るかわからないでしょ。じゃなくて、マジクってソムニウム知ってる?」
 マジク、と何度か呟き、結局紫焔は首を横に振った。
「知らないですね。これ、そいつの?」
「そ。どういう原理か知らないけれど、攻撃を食らった職員が発狂してね」
「あー……ところで、そのお綺麗な腕に傷があるように見受けられますが」
「つまりはそういうことなのだよ!」
「いただきまーす」
 あ。と大口を開け腕を嚙み砕く。
 ばりばりごりごりと骨が砕ける音。
 肉を咀嚼する音が響き続け、腕は綺麗さっぱり彼の腹に収まった。
「うへーいつ見てもぐっろいねー」
「美味しいですよ?」
「うちはいいかな……。で、どう?」
 がさがさとコンビニ袋から安酒を取り出し、璃々にも一つ手渡す。
 かしゅかしゅっと二つ音が響き、口に含み、そうしてから彼はこくりと頷いた。
「わかりましたよ。時間差で発動するトラップのようなものですね。攻撃手段は爪で、爪先に毒があるみたいです。毒の発動は気分でできますね」
「きぶん」
「はい、気分です。そーうだっえいっ。でできます」
 さすが愉悦民、と思わなくもないが、今この瞬間にでも気分一つで殺されかねないという事実はいささか心臓に悪い。
「感覚的に何人もやられてるっぽいですけど、助けたほうがいいですか?」
「まぁ、青葉璃々的には助けたほうがいいんじゃないですかね」
「ふーん……。じゃま、助けておきますね。璃々さんのついでに」
「そりゃどうも」
 にこにこ笑うこの男は、本来ならば敵であるはずのソムニウムである。
 なのにも関わらずこうして穏やかに会話できるのは、彼が変わり者だからだろう。
「もう大丈夫ですよ」
「よかったー。これでゆえさんのところに戻れる」
「ほんと好きですね」
「そらーもう大好きよ」
 ところで、とにっこり笑う紫焔に、ぞわりと鳥肌が立つ。
「お礼とかー、もらえたり?」
「酒買ってきただろ酒!」
「ちょっとだけ、一口だけだから」
「どたまかち割るぞ」
「さすがに割られたことはないなー、死ぬかな?」
「さあ……」
 どうにもペースが崩される。
 髪の毛をくるくると指に巻き付けながら、うーん、と唸る。
「どうしたんですか?」
「いや。最近穏便派どうよ」
「えー。俺そっちとはあんまり仲良くないんで……。ゆえさんでしたっけ? あの人の方が仲いいでしょ」
「まぁね……」
 穏便派、と呼ばれる派閥がある。
 ソムニウムで構成されたそれは、人と争うことを良しとしない者たちが集まり、人に溶け込んで暮らしているものだ。
 派閥と銘打っているものの、だからといって助け合っているわけでもなく、ただ世間一般にソムニウムと……人の敵と認識されているモノだとバレないように暮らしているだけ。
 紫焔は別に穏便派というわけではない為、聞かれても情報など持っていなかった。
 ただ、人は襲わない。それだけだから。
「んじゃ、ソムニウム側は?」
「そっちこそ知りませんよ。俺嫌われてるし」
「だろうな」
「仕方なくないですか? 悪食なんて能力持っちゃったら」
「ソムニウムを食って力を得る、ねー。いい趣味してるよほんと」
 油断させて、正々堂々と戦って、ばくり。
 食った相手の能力を得ることができるが、それも無限に使えるわけではない。
 余程相性がよければ己のものにすることが出来るものの、大半は回数制限付き。
 今回璃々が腕を持ち込んだのも、それが理由だった。
「璃々さんもこっち側になっちゃえばいいのに」
「あのさあ、それ今日も言われたんだけど。なに、ソムニウムで私を勧誘するの流行ってる?」
「……え、なんで? バレたんですか?」
 断られる前提の冗談で言った紫焔が表情を引き締める。手に握りしめた安酒が緊張感を消している気がするし、璃々もぐびっと安酒を勢いよく飲んでいる為か、あまり真剣には見えない。
「それがわっかんない。やだなあ、ゆえさんとはっぴっぴに生きたいだけの人生だった……」
「さすがに俺は情報収集できないですよ」
「知ってる」
「んー、俺もそっちの仕事手伝いましょうか?」
 その言葉に、璃々がぱあっと顔を輝かせる。
「助かるー! 夢成彼方って子の面倒みてくんない? 一応私の弟子なんだけど、私と一緒にいるの危ないだろうから。あ、ついでに特別な魂持ちらしいよ」
「わあ、美味しそう」
「……前言撤回。手伝わなくていいよ」
 す、と表情を消したのを見て、紫焔は慌てて両手をぶんぶん振る。
「冗談! 冗談ですって!」
「そもそも特別な魂って何よ」
「え、俺が知ってると思います?」
「うん、聞いた私が馬鹿だったわ」
 どこからか取り出した煙草を口にくわえたのを見て、紫焔も煙草に火をつける。
「同族殺しって、人もそうだけど、やっぱ嫌われるんですよ。んでもって、俺強いから」
「そだね」
「やっぱこっち側になりません?」
「ゆえさん一筋なんで無理でーす」
「ま、璃々さんはそういう人ですもんね」
「うん、そだよ」
「これから、どうするんですか?」
「あー。しばらくは身を隠す方向? かな?」
「うちに住みます?」
「ゆえさん以下略」
「あっはい」
 ともかく、と璃々がじっとりした視線を彼に向ける。
「頼りにしてるので、彼方くんをお願いね?」
「まっかせてくださいよ。ところで、ちゃんと入社したほうがいいんですか?」
「いや……、そうだな」
 じい、と紫焔の瞳を覗き込み、ふるふると首を横に振る。
「適性がなさそうだから正面きって行っても無理じゃない? 夢成さんに話通してごり押しも難しいし……、夢成さん経由でゆえさんに話通してもらうわ」
「あー、あのじーさん。老けたよなー。俺が生きてた頃はめちゃくちゃ若かったのに」
「そだね」
「璃々さんは変わりませんね」
「そっちもね」
「……ま、のみましょうか!」
「よっしゃ寝かさねーからな!」
 今日は帰れそうにないな、とぼんやり思う。
 明日こそは帰るつもりだが、どう転ぶのか。
 ゆえには、我慢させてばっかりだ。
 ぐ、っと美味しくもない酒を流し込んだ。