どうしてこうなったんだろう。
 頭の中を占める疑問に答えてくれるものは誰もいない。
 廃墟にある一室に身を隠し、ただがたがたと震えることしかできない。
 こんなことなら、どうして。
 ぐしゃぐしゃと肩口まで伸びた髪をかきまぜる。ヘアゴムは、いつの間にかなくなったらしい。
「どおおおこおおお? ねーえええ」
 遠くから聞こえるノイズ交じりの悍ましい声に、びくりと彼方の体が震える。
「逃げなきゃ……」
 まずは、廃墟を出なければ。
「で、も……」
 いつもの三人組で肝試しに来たはずだった。
 一人が怖がりだから、比較的安全な、なんちゃってホラースポットを選んだはずだった。なのに。なのにどうして。
 何故、化物に出会ったんだろう。
 考えても彼方の頭に答えなんか出てくるわけもなく。
 震える足腰でなんとか立ち上がることに成功した。
 本当はもう動きたくない。でも、動かなきゃ逃げられない。
 ここに身をひそめるまで散々追いかけられ、死なない程度にいたぶられ、体中傷だらけだ。それも、致命傷になるような傷はなく、せいぜい切り傷だとか、打ち身だとか、転んでできたものばかり。
「よし……! 逃げるぞ……!」
 言い聞かせるよう、化物に聞こえぬよう小さく力強く声を出す。
「もうおしまい?」
「ひっ……!?」
 後ろから聞こえたざらざらした声に、ばっと振り返る。
 扉は開いていなかった。なのにどうして。
「みーつけた」
 きゃらきゃらと不愉快な笑い声をあげるそれは、まるで枯れ木のようにやせ細った体をしていた。それだけでなく、体もまるで木でできている……いや、木そのものの見た目をしている。
 時折みかける、手足の生えた野菜のようなものだ。ただ、それが原木で、更に言うなら目も口もついているだけで。
 視線を外さぬよう化物をじっと見つめ、じりじり後ずさる。
 そういえばここは廃墟だった。窓枠にはまっていたはずの窓ガラスは存在せず、恐らくはそこから侵入したんだろう。
 化物の容姿を認識できたのも、いつの間にか最上階にいて、ちょうど月明かりが入りやすい位置だったから。
 だからなんだというんだ。
 仮にそこから飛び降りた場合、命の保証はない。骨が折れたら逃げられなくなる。最悪死んでしまう。
 どちらがいいかなんてわからない。
 どのみち、死んでしまうだろうから。
 などという思考を追い払い、扉がなくなった入り口まで後ずさることに成功した彼方は勢いよく回れ右して走り出した。
 行く先は決めていないが、なんならここがどこなのか逃げ惑うあまり理解していないが、とりあえず階下へ逃げ、エントランスホールを抜け、外に出れば救いの手があるかもしれない。
 ――そう、思ったのに。
「追いかけっこ、あーきた」
「なんで、なんでだよ! なんで後ろにいたのに! 前にいるんだ!」
「……?」
 きょとり、と首を傾げる化物。まるで人間のような仕草に、ぞわっと全身の毛が逆立った。
「返せよ、二人を返して……なんで殺したんだ……」
 不思議そうだった化物は、その言葉ににたあっと笑う。嗤う。
「邪魔だったからあ」
「じゃ、ま」
 何を言われたのか、理解が出来なかった。
 じゃま、邪魔。
 一瞬遅れて理解できた言葉に、今までの恐怖も忘れ拳を握り、走り出していた。
「ッ、お前は、お前は殺す!」
「よわいくせに」
 きゃは、と笑った化物に拳を叩きこもうとするも、振り上げたそれが当たることはなく。
 彼方の視界から消えたと思ったら、体中に激痛が走った。
「がっ……、お、ぇ」
 壁にたたきつけられ、血と吐瀉物が勝手に口から流れ出る。
「いた、い……あ、ひっ、死にたくな、やだ、あ、あっ……」
 おもちゃで遊ぶ子供のように無邪気な笑顔。それを見た彼方から戦意が抜け出ていくのがわかった。
 怖い。
 痛い。
 死にたくない。
 こいつは、簡単に人を殺せる。
 化物はただゆっくりゆっくり歩いているだけ。にも関わらず、距離はどんどん縮んでいた。
 それはそうだろう、恐怖に支配された彼方の体は、ぴくりとも動かないのだから。
 ぴたり、化物が止まった。
「ねーえ。もう動かない? おにごっこあきた? 飽きた! 飽きちゃった!」
 あはあは笑う化物から、すっと表情が抜け落ちた。
「飽きたわ死んでいいよ」
「やだ、いやだっ! たすけて!」
 死を覚悟した。
 なのに、痛みは訪れなかった。
「いき、てる」
 咄嗟に固く閉じたまぶたをあげれば、視界に入ったのは暗くも鮮やかな赤。暗闇でも目立つ赤が髪の毛だと、一瞬遅れて理解した。
「そう、生きてるよ~。遅くなってごめんね? ちょぉっと旧友と酒飲んでたからさあ。時間外労働はお断りってんだけど、一番近いのが私だったみたいで」
 次に理解したのは、赤を持つのが女だということ。
 そして。
 大鎌で化物の腕を、切り落としていた。
「あ、ああああああああああ腕! 腕! ゆるさない! ゆるさない!」
「うっさ」
 心底嫌そうに吐き出された溜息。
 それと同時に、もう一本の腕が宙を舞っていた。
「あ、え? なん、なに……」
 何一つ現状を理解できない彼方の困惑をよそに、女はにやっと笑った。
「少年、いや青年か? まぁどっちでもいいや。そこの若いの!」
「あ、俺……?」
「そうそう。お名前は? 私はね、青葉璃々。青い葉っぱに、瑠璃の璃とのま、漢字が続くとき使うあれね。あれであおばりり。きみは?」
「ゆめなり、かなた。夢が成るで夢成。彼に方向で、彼方……です」
「そう……」
 一瞬だけ遠くを見つめた璃々は、すぐにぱっと笑顔を浮かべた。
「じゃあ彼方くん! あれ、殺す?」
 ぽいっと彼方の前に投げ捨てられたのは、黒くてシンプルなナックル。
 からんからんと転がったそれを拾うことなく、ただ困惑を目に乗せ彼女を伺った。
「それはねぇ、世間一般ではメモリアって言われてる。まぁ所謂武器だ。きみは多分それが合うだろうよ」
 視線をまるっと無視してからから楽しそうに笑う璃々。
 その笑い声も、化物の呻き声と同時に止まった。
 化物にまっすぐ視線を注ぎながら、真剣な表情で口を開く。
「さあ、選んで。このまま何もなかったことにしていつもの日常に戻るか」
 彼方が、はっと目を見開く。
「友達の仇をうつか」
「ころす、ころすころすころす!」
 璃々と化物の声がかぶって聞こえたと同時にナックルを手に取り、無意識にはめ込んだその瞬間。
 今まで感じたことのない力が漲るような、そんな感覚に陥る。それはきっと気のせいじゃなく、このナックルが持つものなんだろう。
 今なら怖いものなどない気がした。
 何にも負けないと思った。
「うるせえよ! 死ねボケ! あいつらを、親友をかえせ!」
 立ち上がった彼方の直線上にいた璃々が困った顔で彼を避ける。今の彼方には、化物しか見えてないだろうから。
 脱兎のごとく走り出した彼方を避けた璃々は、ポケットから煙草とライターを取り出し火をつけ、スマホに指を滑らせた。
 そんな彼女の存在をすっかりさっぱり忘れた彼方は、先程は避けられた拳を見事に叩き込む。
「ふざっけんな、お前が、お前が! くそが、くそが!」
 ばき、どか、ぐしゃ。
 何度も何度も拳を振り上げ、叩きおろす。
 避けることもできず、殴られているため喋ることもできず、呻き声しか出せずにいる化物はとうとう壁まで吹き飛ばされ、凄まじい音と共にずるずる床へ崩れ落ちた。
「お前のせいで、お前のせいで……!」
「ぁ、ぉまえ、の、せい。きゃは、きゃははは! おまえの魂は特別! なのに武器ももたない愚か者! お前のせいっていうお前のせいであいつら死んだ!」
「は……?」
 これでとどめだと握った拳から力が抜けていく。
 そうだ、そういえばそうだ。
 資質がないと言われていたから決行した肝試し。化物は、ソムニウムは素質持ちしか狙わない。
 二人は、彼方を守ろうとして、死んだじゃないか。
 ――じゃあ何故、彼方はこれを使えている?
「はぁいそこまで。ごめんねこの粗大ごみの言うことは気にしなくていいよ」
 ふわ、と香る苦さに、軽い言葉に振り返るより先早く、大鎌が化物に振り下ろされた。
「喋るごみはお掃除しましょうね。……いや、ほんと気にしなくていいよ。マジで」
 困ったように大鎌を抜きあいた左手で煙草を持ち、ぽいっと化物の上に捨てヒールの高い靴でぐしゃっと踏み抜いた彼女にも、化物の言葉にも、理解が及ばない。
 理解したくない。
「俺、おれのせいで、二人、死んだんすか」
「……」
 からん、からん。力の抜けた指から、ナックルが抜け落ちる。
「資質ないって、じーちゃんと検査行ったのに。でも、俺今、使いましたよね。使えましたよね? それ、俺の、俺の……」
 かちり。ライターの音に、彼方は顔を上げる。
「彼方くん。きみのじーちゃんは説明してくれなかったの?」
「え、説明……?」
 呆れ顔の彼女は、祖父と知り合いなのだろうか。
 それにしては、彼女は若い。恐らく彼方より少し上くらいだろう。薄く施された化粧で年齢を誤魔化している可能性もありえるだろうが。
「素質と資質は似ているようで違うんだよ。資質は天性の才能。素質はそこにあるポテンシャル。うまれつき持っているもの。……まぁ、つまり魂だ」
「魂……」
 呆れ顔から一転、どこまでも真剣な表情に、紡がれる言葉に、彼方は頭の中でも言葉を復唱する。
「魂は生きとし生けるもの全てが持ってるでしょ? だからね、それだけで狙われる。ただまぁ、資質持ちの方が美味しく見えるのは確かなんだろうね。んでもって、ここはあいつの根城だったみたい。うまいこと気配を隠してたし、……まぁ何より弱かったし。……ともかく、ここに来た以上これは避けられなかったよ。誰のせいでもない」
 慰められているのだろうか、と考え璃々の表情を伺うも、同情なんてそこには一ミリたりとも存在しなかった。
「同情、ですか?」
 それでも、きっと璃々は彼方より大人だ。隠しているのかもしれないと、気付けば口からそんな言葉が飛び出していた。
 だとしたら、不要だと。そう言おうとしただけなのに。
「あっははは! 同情! 私には似合わない言葉だねぇ? あーウケる」
 同情しているのか聞いただけなのに、何故彼女はこんなにも、腹を抱えてまで笑っているのか。恐らく誰しもそう思うだろうが、残念なことにここは彼方と璃々しかいない。
 いなくなってしまった。
 これがおかしいのか、そうじゃないのか。
 疲弊しきった頭では、ただ茫然と見つめる以外の選択肢がなかった。
「つけあがるなよガキが。私はお綺麗な人間じゃない。あれは事実で、きみは知らなかったから説明しただけ。あーいや、そんなこたどうでもいいんだよ。後処理が来るまでに聞かなきゃなんだって。つか私が怒られるんだよ~」
 最後の一言はとても小さい声だったが、しっかり耳に入った。
「怒られる?」
「そう。とっても。笑顔で圧かけられちゃう。誰にか知りたい?」
「ああ、はい、まぁ」
「おめーのじーちゃんだよ」
 正直興味がなかった。聞きたくないと言えばよかった。しかし、既に遅い。
 真顔で言われた言葉は、彼方を現実に戻すには十分すぎる効力を持っていた。
「なので選択肢をやろう」
「また、選択肢ですか」
 祖父への恐怖心でそれどころじゃない為、思わずつっけんどんな言い方になってしまう。それすらも璃々はにやにやにこにこ受け流したけれど。
「一つは、床に転がるそれを私に返し、全てを忘れ被害者として日常に戻ること」
 つ、と人差し指を立て、続いて中指を立てる。
「もう一つ。……それを受け取り、ソムニウムと呼ばれる化物を八つ当たり紛いに殺して回ること」
「八つ当たり、って……」
 きょとり、首を傾げる璃々がどこか化物とかぶって見え、ごしごし目をこすった。
 こんなにも綺麗な人が、命を助けてくれた人が、化物なわけないのに。
「だってそうでしょ。今仇は取った。じゃあもう戦う理由はない。あるとしたらお綺麗な正義感か、ソムニウム全てを恨んで殺しまわる八つ当たりだけでしょう?」
 戦い、というにはただ殴るだけで戦意すらも喪失してしまったお粗末なものだが、戦いで熱くなった体に冷や水をぶっかけられたような気分だった。
 体が途端に寒くなる。
 にこにこと笑う彼女が、異質なものにしか見えない。
 それなのに、理解してしまう自分がいる。
「それは……でも……。それで、自分を保てるなら、必要なんじゃないですか」
「そうだね。で、きみにそれは必要かい? 彼方くん」
 絞り出した声すらも楽しそうな声に上書きされていく。
 何か反論しなければ、でも、何を。
 考え込み、しまいには涙が滲んだ彼方を見て、璃々が慌てたように大鎌を投げ捨て、そっと優しくその涙を人差し指でぬぐう。覗き込んでくる表情はどこからどう見ても慌てていて、より一層わからなくなった。
「ごめんね、いじめるつもりはなかった。でも~、そのぉ……、ほらぁ、夢成さん過保護過激派じゃぁん……。戦わせたのバレたら私タコ殴りにされちゃうからぁ……」
 視線をうろうろとさせ、あまりにも情けない声を出すものだから、彼方は自分でもびっくりするくらい大きな声で笑ってしまった。
「ひぇ……笑われた……夢成の血こわ……」
「ふふっ、あははっ、はぁ……そっすね……じーちゃん怖いもんな……」
「ちょーわかるぅ……」
 ふふふ、あはは、はぁ。
 揃った溜息と同時に、璃々はナックルを拾い上げる。
「というわけで回収したんでいいよね? 怖くて痛い思いしてまで他人を助ける義理ないでしょ」
「ありますよ」
「なんでぇ……」
 璃々の細い指からナックルを取り上げたら、今度こそ泣きそうな顔をした。それに少しばかり罪悪感が刺激されたが、言ってはいられない。
「俺、ばーちゃんも、かーちゃんも、とーちゃんも殺されました」
「はい、存じております」
「まだ、そっちの仇はとってないんで」
「ほら、そこは強くて偉大なるじーちゃんがとってるかもしれないじゃん」
「じーちゃん、酒癖悪いでしょ」
「ああ……」
 死んだ目で遠くを見つめる璃々。
 彼方も思わず同じ目をしかけたが、まずは彼女を説得しない限り祖父を説得できるわけがないのだ。
「俺ね、とーちゃんのことも、かーちゃんのことも覚えてない。けど、じーちゃんがつらそうに話すんだ。もっと生きるべき人間だった、って。だから……だからさ……」
「……そう。ま、あのアホンダラを説得できるとは思えないけど、一緒に説教くらいは受けて差し上げよう」
 投げ捨てた大鎌を拾い上げた璃々は、どこまでも明るい笑顔を彼方に向け、聞こえた足音にきつい視線を投げた……かと思えば、これでもかというほどの笑顔を浮かべた。
 視線を辿れば、黒のスーツを着こなした眼鏡の男が無表情に歩いていて。彼は璃々の笑顔を見て口元を綻ばせる。
「あ、いたいた。お疲れ様です璃々さん」
「あ~ゆえさぁん! ちょーつかれた! カフェラテ!」
「はいはいどうせ疲れてませんよね。カフェラテは買ってあげますけどね」
「は? ちょー甘やかしてくれるじゃん好き」
「ついでに煙草も買ってあげましょうね」
「え何禁煙推奨派の奢る煙草怖すぎ何が狙いだ貴様」
 ざりざりと後ずさりし、彼方の後ろまで下がりそこから顔だけ出し威嚇を始める璃々。
 助けを求め、ゆえと呼ばれた男を見る彼方だったが無言で首を横に振られてしまった。
「夢成さんに相当怒られそうなので。せめて遺品に煙草くらい買ってあげようかな、と」
「殺すな殺すぞ」
「あぁ怖い怖い」
 くすくす笑うゆえと威嚇する璃々。
 そしてそれに挟まれた彼方。
「あの……俺を挟まないで……」
 絞り出した懇願は、聞き届けられなかった。