夢成彼方は機嫌が悪い。
 普段は仏頂面で固く結ばれた口がこれでもかというほどへの字に曲がっており、頬杖をついたせいで寄った頬肉がそれを更に強調している。
 そんな視線の先にいるのは、彼方とは真逆で楽しそうな璃々。小柄な体躯でどう扱っているのか、身長程もある大鎌を自由自在に振るってソムニウムを刻んでいた。
 ――あれから一週間ほど経った。
 ナックルは変わらず彼方の手にあるし、家にいる時それを指にはめこんでみたりもする。なのに、使ったのは結局あの一回きり。
 安全圏から見学する戦いは、璃々が強すぎるせいなのかソムニウムが弱すぎるせいなのか、正直ちょっとだけ退屈だった。
 一日に何度も化物退治をしている璃々の体力を見て、絶対自分には無理だと筋トレを始めたし、苦手な早起きをしてランニングもはじめてみた。
 たったの一週間で筋肉がつきはじめたとは思わないが、それでも少しだけ体力は増えた。
 血が舞い、犬の形をしたソムニウムが倒れ伏す。
 璃々がそれに向かって手をかざしたかと思えば、半径一メートル程の黒々とした紫の空間が展開される。大鎌を使い犬を動かしその中に入れたと同時に、それは消えたけれど。
 ソムニウムの残骸は消えない。
 あの日の夜、璃々に教えてもらったことだ。
 戦闘職員に配布されている指輪は、ゲートと呼ばれる空間を作り出す。その中に死体をいれれば回収が可能。
 しかし、生きているものを投げ入れた場合命の保証はなく、めちゃくちゃ怒られると遠い目をした彼女は言っていた。
 本人は頑として口を割らなかったが、あれはやったくちだろう。
「おわったー! 彼方くんご飯いこー!」
 にこにこしながらぶんぶん手を振る彼女に、彼方は隠しもせず溜息を吐き出す。
「あれー、ご機嫌斜めじゃん。退屈?」
 スマホでゆえを呼び出しながら近づいて来た璃々に、もう一度嘆息。
「退屈ですよそっりゃあね」
 仕事があれば連れていく。その約束を取り付けた際出された条件は二つ。
 一つ。何があっても手は出さない。
 二つ。文句は言わない。
 二つ目は現在進行形で破られているが、それなりに我慢の限界だった。
 いや、聞かれたことを答えただけだから破っていないという認識なのかもしれない。少なくとも璃々の中では。
「戦いたいかい?」
「まあ、そりゃあ。見ているだけって、もどかしいです」
 璃々は危ない戦い方をする。
 腕の一本や二本くらい犠牲にしてもいい、なんなら命が消えない限りなんでも犠牲にしたっていい。そういう危うさがある。
 傷をこさえることはまずないものの、何故傷がないのか逆に不思議なくらいだった。
「そうねぇ……」
 と、璃々は唇に指をあてる。
 ここ一週間でよく見る光景だった。
 彼女は、考え込む際唇を触るか毛先をくるくる指に巻き付ける癖がある。
 そんな癖がわかってしまうくらい、共に行動しているのに。
「次のお仕事が弱そうなやつなら回してあげる」
「ほっほんとですか!」
「ほんとほんと。ゆえさんにもねぇ、そろそろ不満たまってそうですよって言われてんのよねー」
 尻尾があればぶんぶん振っているくらい嬉しそうな彼方に、璃々は苦笑をこぼす。
 かつ、こつと革靴の音が聞こえ、二人してそちらを向けばゆえがにこにこ笑っていた。
「噂をすれば、といいますが私がなんですって?」
「俺がめちゃくちゃ不満ですって話してました!」
「でも璃々さん的に戦わせるの不満です!」
「あ、はい。帰りますよ。時間的にお昼時ですね。ラーメンの気分なんですけれど」
 あっさり流され唇を尖らせた二人だったが、ラーメンという単語にきゃあっとてのひらを重ね合わせる。
「彼方くん好きなラーメンなにー? 私ねぇ、とんこつ」
「チャーシューっすねー。ネギマシマシだとさいっこう」
「仲いいなお前ら」
 呆れたように言い残しその場から立ち去るゆえを急いで追いかける。
 なにせ、彼はドライバー。置いていくことはないだろうが、彼がいないと移動手段がなくなるのだ。
 璃々と彼方は性格が合う。
 彼方は顔の作りからして常日頃仏頂面だが、別に感情の起伏がないわけではない。なんなら、表情豊かな方だ。
 璃々もそれは同じで、喋っている時は常ににこにこ笑顔を保っている。しかし、喋っていない時やぼんやりしてる時は怒っているじゃないかと勘繰ってしまうほど表情がない。
 それに加え彼方の祖父と仲がいい璃々は、なんだかんだ血縁関係のある彼方とも相性がいいのだった。
 対してゆえはよくわからない人である。
 にこにこしていることも多いが、璃々に向ける笑顔とその他に向ける笑顔の温度差が激しい。あとは大体疲れ切っているイメージが強い気がする。
 それはテンション高くよくわからないことをし始める璃々に対するものだったり、それに乗っかる彼方に向けられるものだったり。
 本人は否定するだろうが恐らくあれ。
 胃痛保護者枠。
 ぴろりん、ぴろりんと璃々のスマホが鳴る。
「マジいい加減にしろよ、私は高校で言うところの非常勤講師レベルの扱いだろ最近仕事多すぎ」
「璃々さんてそんな感じだったんですか?」
「璃々さんは強いので、何人も殺しているソムニウムを当てられがちなんです」
「え……」
 はじめて聞く情報に彼方が顔をこわばらせる。
 つまり、見学が多かったのは。
 助手席に座る璃々を見ると同時に振り返った彼女がにへらっと笑う。
「次は弱いのちょーだいって言っとくから、気長に待っててほしいなあ。ごめんねえ?」
「や……その……、すみません、我儘言って」
 守ると、彼女は言ってくれた。
 確かにそうだろう。
 弱い彼方が共に戦えば足を引っ張るのは当然。
 よく考えなくとも気付いてよかったことだろう。
 彼女はかつて死んだと思われていた。
 きっと、同じことになる。もっと、最悪のパターンで。
 落ち込んだ彼方の頭を、助手席をがたんっと倒した璃々が手を伸ばし撫でる。
 完全に子ども扱いだが、修により甘やかされ育った彼方にはありがたいものだった。
「あ、そーだゆえさん」
 助手席を元に戻した璃々がスマホをぶんぶん振る。
「はいはい?」
「次の角右、んでまっすぐ行ったところにコンビニあるでしょ」
「ありますね。寄りますか?」
「一人拾って」
「は?」
 ゆえの顔はこれでもかというほど顰められていたし、璃々の笑顔も少しだけ怖いものとなっていた。
「次のお仕事なんだけど、あー、めちゃくちゃオブラートに包まれてたけど、独断専行の目立つ問題児の教育してくれってさー」
 赤信号で車が止まる。
 ゆえはスマホを取り出しメッセージを見て舌打ちしていたし、璃々はスマホをぶんぶん振っていた。
 車の空気が冷え込む中、璃々の手からスマホがぽいっと彼方に向けて投げられる。
 慌ててそれをキャッチすると、メッセージ画面が開きっぱなしだった。
『楠ビルにソムニウム出現。登録された魂の情報によると職員九人を殺害し逃走している者と一致。尚、位置情報に送った場所に居る職員を同行させること。名は里中ひなた。同行任務において職員との連携が取れず揉め事を起こすきらいがある為同行を願う。当人は青葉璃々に憧れを抱いているようなので、くれぐれもよろしく頼まれたし』
 すぅ、と息を吸い込む彼方。
「面倒なやつじゃないですかやだー!」
「あ、コンビニつきましたよ。あの人がそうですかね?」
 読んでいる間に問題児のいる場所へ辿り着いていたらしい。
「え待って璃々さんに憧れてる人間が俺に対していい感情持つわけないよね? おろしてもらっても?」
「逃げんな面倒ごとはみんなで共有って相場が決まってんだよ」
「そんな! 相場は! ない!」
「んじゃ行ってくるわー」
「私冷たいコーヒーで」
「俺いちごフラッペ!」
 叫びはまるっと無視されたので、せめてもの腹いせと少しだけ高いものを頼んでおく。
「あいよー」
 車から降りた璃々が、彼女と似た赤毛を持つ女へ声をかける。化粧で顔立ちを似せているのか、それとも元々なのか、遠くから見れば姉妹と見えなくもない。
 しかし違うのは、女の頭頂部は染めた痕跡である元の黒髪が少し見えていることと、璃々は腰まで伸ばしているが女は肩口で揃えていることくらいだろうか。
 一見仲良さげ、というよりは女が一方的にきらきらした視線を向けているだけにも見えるが……、ともかく一緒にコンビニへ入り、しばらく後女が袋を持って車まで戻って来た。
「ただいまー。はいコーヒー、んでフラッペ」
「本日はよろしくお願いします! 里中ひなたです!」
 車に乗り込む前ぺこりと一礼したひなたが問題児という言葉と結びつかない。
 そんな認識は、車に乗り込んだひなたが横に座る彼方へ胡散臭げな視線を向けたことですぐ覆ったのだが。
 視線は無視するに限る、と彼方はフラッペを口に含む。
 甘く冷たいいちごが口の中に広がり、思わずにっこりする彼方だった。
「どうもはじめまして。璃々さんの専属ドライバーをしているゆえです」
「夢成彼方です、よろしくお願いします」
「専属ドライバー……! さすが璃々さんです、専属の方がつくなんて」
 憧れの視線を散らすように璃々が手をひらひら振る。それも、ひなたからしたら“自分に手を振ってくれた”ことになるらしく、視線を強めていたが。
「専属ドライバーってことは、普通手の空いた人がやるってことですか?」
 彼方の不思議そうな質問に、隣から鼻で笑う声が聞こえた。
「なに、夢成ってことはあの夢成修の孫でしょ? そんなことも知らないの?」
「あ?」
 後部座席で火花が散り、前方に座る大人二人はこっそり溜息をついた。
「まあまあ。ひなたちゃんはこの仕事いつから?」
 アイコンタクトにより、憧れを持たれている璃々が対応することになったんだろう。笑顔の裏にめんどくさいという感情が透けている。
「はいっ、小学校六年生の時ソムニウムに襲われ、その際資質検査をしたら高いということで、中学一年生の時メモリアを選びました。今は高校三年生ですので、かれこれ五年と少しでしょうか」
「タメかよ……」
 思わずこぼれた言葉に、ぎっとひなたが睨みつける。
「だからなンだよ」
「別に……。喧嘩腰でしか話せないのかお前は……」
「お前じゃねーよひなたって親から授かった名前があンだよわーったかダボ」
 やりとりは小声であるが、前方には筒抜けであった。
「あー。ひなたちゃんも最初は何も知らなかったでしょう? 彼方くんがソムニウムと相対したのもここ一週間の話なのよ。だからあんまり責めないであげてね。今お勉強中なの」
 憧れる璃々からの言葉に、ひなたはぐっと黙り込む。
「……璃々さんが言うなら。わかりました。人間誰しも最初はあかちゃんですからね。仕方ないですね」
「こっの女ァ……」
「あ?」
「はいはいつきましたよー。私は待機ですがここからは命の軽い世界です。無駄な争いで命を落としたら、悔やんでも悔やみきれませんよ」
「……はい。すみませんでした」
「ごめんなさいゆえさん」
「二人ともいい子ですね。それでは、行ってらっしゃい」
 口論のせいでフラッペは飲み切れなかった。
 持って行くか迷ったが、彼方のメモリアはナックル。恐らく今回も見学だろうが、手が塞がるのは避けたいと置いていくことにした。
 車を降りると照り付ける日差しに、璃々が目を細める。
「あっついね。いつも通り廃墟だから、中入ったら多少涼しいでしょ」
「そうですね璃々さん!」
 かつかつと足音を響かせながらビルの中へ入っていく。
 扉は開かなかったけれど、璃々がつけているピアスを撫でると何故か鍵が開く。
「えっそれあたしもはじめて見ました! めちゃくちゃ便利ですね!」
「資質がなくても使えるやつだよ。最近は便利だね」
 キイィ、と軋んだ音と共に扉が開く。
 足を踏み入れ女性陣が周囲を警戒するも、肩透かしをくらったようにひなたが肩を落とす。
 中は一般的なビルのようで比較的綺麗なものの、やはり廃墟。全体的に埃っぽく、壁にはところどころひび割れが見られる。
「いませんね」
「そだね。まぁそのうち会えるって」
 歩を進めながら、そうだ、と璃々がこぼす。
「専属ドライバーの話が流れていたね」
「おしえてりりおねーさん!」
「任せなさい彼方くん!」
 こういうところが合うのだろう。そのノリをはじめて肌で感じたひなたは、目をぱしぱししていたが。
「職員に割り振られる仕事は、大体が近い場所にいる職員へ回されるわけ。でも、そうじゃない場合がある。さて、そうじゃない場合とはなんでしょうひなたちゃん」
「はい! メモリアで攻撃されたソムニウムは魂の形を自動登録されます。逆にいえば、攻撃を受けない限り敵の位置を捉えることも出来ず、生き残りがいない場合能力が未知数ということです。そうなると強い人材を派遣する。もしくは、誰も近い場所にいない場合ですね」
「はいよくできました。撫でる?」
「ぜひ!」
 わちゃわちゃと、少しだけ傷んだ髪を撫でながら璃々が再び口を開く。
「そもそも初対面の場合、職員が会敵したパターン、一般人が襲われたパターンがあるのよね。一般人の場合行方不明情報が警察に回るけれど、結局後手後手になって被害者が増える。被害者数は発見の遅さと繋がってくる。つまり、より魂が強く狡猾なソムニウムと考えられるわけよ」
 言いながらペットボトルの蓋を開け、喉を潤わせる。その後一瞬でペットボトルが消えたが、ひなたは璃々の顔を見つめていて手元など見ていなかったし、彼方も理解しようと頭を回していた為気付かなかった。
「とはいえど職員は大体訓練を受けたのち就職となるし、強いものは新入職員の師となり、大体ツーマンセルで行動するかな。師とならないものは人に教えるのが苦手だとか、偶然組んだ相手とやるのが好きとか、色々いる。なのでまあ、初対面でもランダムに手が空いてる人材に回されるん」
「なるほど、そこで登場するのが一般ドライバーということですか」
「そゆこと。逆に私みたいな個人行動してるやつは実力がある職員ってわけ。一人でも倒せることが前提。そういうやつには個人ドライバーがつくのよ。まあ、私は色々あってゆえさんじゃなきゃ嫌ですぅってゴリ押したし、当時の上司が同じく嫁だった久木さんじゃないと嫌ですぅってゴリ押した夢成さんだったので通ったようなもんだけどね」
「じーちゃんさあ……」
 聞けば聞くほど祖父に対する呆れが募っていくのは何故だろう。彼方には理解したくもなかった。
「璃々さんは」
 ひなたが、少しだけ困惑した視線を璃々に向ける。それを受けた彼女の瞳は、どこまでも凪いでいた。
「わりと、人間的ですね」
「そりゃあそうよ。人として生きて、はいはい構えて~」
 言いながら大鎌を構える璃々。
 遠くから飛んできた何かは、彼女の持つ大鎌で叩き斬られた。
「璃々さん、今のは!?」
「あー。風? あんまり斬った感じがしなかった。よくわかんね。飛んできたのはあっちだね。移動してる可能性もあるけど、ビルとかいう狭い空間でどこまで移動できるかわからんし。あっち行くか。彼方くんも、ナックルは外さないでね」
「わかりました」
「了解です」
 返事をしたのち、彼方はひなたに顔を寄せる。
「なあ、璃々さんさっきまで大鎌持ってたっけ? 急に出てこなかった?」
「あ? ……そういえば。つか、さっき璃々さんなんか飲んでたけど、あれどこ行ったわけ?」
 五百ミリペットボトルは一体どこへ消えたのか。
 黒のスキニーパンツにタンクトップという軽装で手には大鎌のみ。そんな璃々に物を隠せるわけがなかった。
「そういうメモリアがあるとか? 便利系みたいな?」
「さあ……。彼方だっけ。あんたもメモリア持ってるなら見たでしょあの数。あんなにあるのに個々の能力とかわかんないって」
「へえ……。そんなにあるんだ」
 ひなたの眉が寄る。
「へえ、じゃねンだわ」
「怒んない? 嫉妬しない?」
「あたしをなンだと思って、いやいい。言ってみな」
 深くなった眉間の皺を揉み、続きを促すひなた。
 多分睨まれるんだろうなと思いながらも、彼方は口を開いた。
「俺のメモリアは璃々さんがくれた。俺は璃々さんに命を助けられて、その時、仇うちしたくない? って、放り投げられたのがこれ」
「ンンン……、待て。まぁ待て。言ってみなって言ったのはあたしだ。オーケー。呑み込もう」
 その言葉に、おや? と彼方が思うより早く、ぎっと睨まれた。
「おめーマジでなんも知らなさすぎだろ。や、そんなこと言ったら教えている璃々さんを悪く言ってしまう……ぐぎぎっ……」
「おう聞こえてんぞお前ら」
 呆れ切った声音に、びくっと肩を震わせるひなた。
「あああ、あの、りりさ、あのあのあの……」
「いいのいいの。私教えるの苦手だからさ。何がわからないのかわからないあれね。思いついたことしか喋らないから、ずっと一人でやってたん。事実は言われても気にならないよ」
 可哀想なくらい震えるひなたの頭をぽんぽん撫で、視線だけ彼方へ向けられる。
「多分ー、ひなたちゃんが言ってるのは適性の話だと思うんだけどね」
「あ、はい、そうです。メモリアは人を選ぶ。人がメモリアを選ぶとも言われていますけれど、結局よくわかんないんですよね武器のことって」
「あれはねぇ……」
 璃々が立ち止まり、つられて二人も足を止める。
「まぁいっか。はいこれ持ってみて彼方くん」
「あ、え、どこから……?」
「さあ?」
 答える気はないのだろう。大鎌はなくなり、代わりに握られていたのは小ぶりのナイフ。
 渡されたそれを言われた通り握ったけれど、なんとなく不快感を感じただけで何も起こらない。
「どう? 何か感じる?」
「や、特に……。ちょっと気持ち悪いなぁってくらいで」
「その気持ち悪いが相性の悪い証拠だわボケ。気付けばーか」
「お前マジで口悪いな!?」
 威嚇し合う二人を見て璃々が「犬……?」と呟いたが二人の耳に入ることはなかった。
 まあいいかと気を取り直し、璃々が彼方へてのひらを向ける。
「はいそれ返して」
「はい、どうぞ」
 手渡したナイフは、その場で消えた。
 目をまんまるにした二人だったが、ひなたは興味津々の視線を。彼方はここしばらくの付き合いによる賜物か、考えるのをやめた。
 ナイフの代わりに現れたのは大鎌。
「ひなたちゃんがどこまで実力を持ってるのかは知らないけれど……。メモリアはね、相性がよければよいほど力を発揮する」
 ぶん、と振り下ろされた大鎌から何かが放たれ、次には数メートル程離れた壁が音を立て崩れる。
 粉々になったコンクリートと埃がもやもやと舞い上がる。
 その先に、何かが居る。
 視界が晴れたときそこに居たのは、上半身が蛇、下半身が人間という奇妙な生き物だった。
「こんなふうにね。逆に、相性が悪ければ何の力も発揮しないどころか体調不良になる人もいる。さ、お勉強はおしまい。やっておしまい!」
「あいあいおやび、えっ俺も動いていいんですか?」
「まーあ……。私からしたら弱いし、あいつ。やばくなったら助けるね~! がんばえがんばえ~!」
 うそでしょ。響きの異なる音がが二つ重なる。
 相変わらず璃々はむちゃくちゃだ。それでも、やっと戦えることが彼方は嬉しかった。
 ちょっとした戦闘のコツなどは璃々が戦いながら、こういう時はこう。などと教えてくれているし、やれるとこまでやろう。
 拳を握り締めた彼方の腕を掴んだのは、ひなた。
「いやいやいや……弱くない、アレは弱くねーだろ! ズブの初心者以下のお前がつっこんでどうこうできるレベルかよ!」
「いやでも璃々さんがゴーサイン出したし……」
「ぐっ。璃々さんにも考えがあるかもしれないけど! あたしは反対だ! あたしにお前を守るだけの力はない! 目の前で人が死ぬのは御免だ!」
 ギィン、音が響く。
 咄嗟に後ずさりそちらを見れば、璃々が大鎌で蛇の牙を受けていた。
 蛇の先にいるのはひなた。狙われた彼女は、悔しそうに唇をかみしめている。
「早速手を出す事態に陥らないで、頼むから。ひなたちゃんは五年もやってるでしょう。他人を見て動きなさい」
 大鎌を一振りするより先に同時に蛇人間が後ろへ跳んだ。一瞬遅れ、ぶんっと風を切る音が響き渡る。
 至近距離で振るわれた大鎌から放たれた風圧が髪を揺らし、二人は思わず息を呑んだ。筋肉なんてなさそうな細腕で、どうやってあの風圧を作り出すのか。
「避けられちゃった。萎えぽよぽよだからあとがんばえ~。大丈夫、後方師匠面で見守ってるからね!」
「後方師匠面イズ何! あと璃々さん絶対本気じゃなかったですよね! 教えるの苦手な理由絶対その放任とスパルタ主義ですよね!」
 獅子は子を崖から突き落とす。
 璃々のやっていることはまさにそれだ。
 蛇人間はこちらの出方を伺っている。視線の先にいるのは璃々で、彼女の動きだけを気にしているようだ。
 そんな蛇人間から視線は外さず、璃々の言葉を待つ。
「わかるそれな! てかそれな! ……ま。ちゃんと助けるから、好きにやっちゃいな」
 凪いだ声には絶対的な自信があった。
 普段はともかくやる時はやる女。
 それが、彼方の思う青葉璃々だった。
「あいあい師匠! 後方で師匠面しといてくださいね! おらやんぞひなた!」
「お前、お前マジか!? 無知にも程が、突っ込んでいくな!」
 拳を握り蛇人間へ突っ込んでいく彼方へ、ひなたは盛大な舌打ちをかました。


 あれよあれよというままにゆえが運転する車へ放り込まれ、コンビニに寄って温かいコーヒーを渡された後家へ送り届けられた。
 潰さない程度に握りしめていたはずのカップはほんの少しだけへこんでいて、中身はぬるくなっている。
 家に入りたくない彼方を見守るように佇むゆえと瑠璃を、ゆっくり見る。
「……あの。じーちゃん、知ってるんですよね」
「まあ。知っていますね」
「とっても知ってる。あいつの拳は痛いんだ」
 大物である夢成修をあいつ呼ばわりする青葉璃々は一体何者なのか。
 少しだけ気になった彼方だが、今はそれどころではない。
「中に……いますよね……」
 ついっと視線を逸らした璃々。
 どう考えても答えであるその反応を認めることはできず、縋るようゆえを凝視する。
「いますよ。私がお送りしましたので」
 結果、得られたのは確信と絶望だけだった。
「終わった……。璃々さん、一緒にタコ殴りにされましょうね……?」
「え、やだ助けてゆえさん」
「私資質なし一般ドライバーなので無理ですかね」
「この世の終わり……! 彼方くん……!」
「璃々さん……!」
 助けて、と濁音がつきそうな勢いで叫ぶ二人に溜息を吐き出し、玄関チャイムを押すゆえ。ぴんぽーん、と響き渡る音に、二人はとうとう強く抱きしめ合う。
「やだやだ、痛いのはやだ!」
「俺もやだ! タコ殴りはやだ!」
 がちゃり、恐怖の音が静かに聞こえた。
「うるっさいわ馬鹿二人! 近所迷惑! はあ、ゆえくんごっめんね~うちの馬鹿二人が」
「は? 一人は私のだが?」
「う・ち・の! 馬鹿二人だから」
「きっと草派の陰で泣かれるでしょうね……この歳にもなって若い女にうつつを抜かすなんて……」
「は? 璃々ちゃんを拾ったのは僕だが? 嫁も可愛がっていたが?」
「先に知り合ったのは私ですので。あなたは恩人かもしれませんが心を許せる存在は私だけだと思っていますし?」
 全て笑顔で交わされる応酬に、二人は抱きしめ合う力を強めた。
「あんな、威厳の欠片もないじーちゃん、見たくなかった……」
「いやあの人かっこつけだし素はあんなだよ。は~ゆえさんに愛されててうれし~! でも怖い~!」
「みんな馬鹿じゃん……」
 人のことを言えないのは理解しているが、それはそれ。全て棚にあげ、にへらにへら笑う璃々の頭をなんとなく撫でた。
 その瞬間。
「おい馬鹿孫が璃々ちゃんに何してやがる」
「恐怖を緩和させるのに人肌が最適とはよく言ったもので、そこまではまぁ……、私は心が広いので許しましょう」
「んっふ、あっはっはっはっは!」
 すっかり消え去った二人の笑顔に、思わずぴゃっと飛び上がり璃々から離れる。そんな三人を見て心底楽しそうに笑う璃々は、どこかおかしい。
「……さあて、彼方くんの緊張もほぐれたかな? お茶でもいれますね~」
「おうこら待てや馬鹿一号」
 そろーりそろーりと修の横を通り抜けようとした璃々の首根っこががっしりと捕まれる。ひゃん、と鳴いた彼女は、そのまま借りてきた猫のようにおとなしくなった。
「助けなくていいよ」
「助けませんよ」
「二人って実は仲が――」
「は?」
 彼方が脳死で放った言葉は、二人分の声にかき消される。
「……ナンデモ、ナイデス」
 結果。
 失言した彼方も首根っこを掴まれることとなったのだった。

 

 温かい緑茶の香りが室内を満たす。
 煙草が吸いたいとぼやいた璃々はゆえの笑顔で黙らされ、ソファにも関わらず体育座りでいじけている。
 その横に座る彼方は、真正面に座る祖父から放たれる圧に気圧されていたし、横から放たれる威圧感をものともしないゆえは、我関せずでスマホをぽちぽち触っていた。
 ふ、と修が威圧感を解く。
「璃々ちゃんから報告は聞いたよ。死者二名、二人ともソムニウムに取り込まれた可能性大。彼女の介入により助かった人間が一名。……なんでも、さあ」
 と、ここで再び笑顔の威圧が始まった。
 今ここで抱きしめたらだめかな、だめに決まってんだろ起きろガキ。そんなアイコンタクトは、ゆえの咳払いにより終了した。
「生存者は資質検査における資質がなかったにも関わらずメモリアを使いこなし、対象を殺害一歩手前まで持って行った。しかし、対象による精神攻撃で戦意喪失」
 威圧感が消えた。
 何が起こったのかと、彼方は真っ先に璃々を見る。彼女の視線は彼方にまっすぐ注がれているし、なんならにっこにこだし、更には口パクで、がんばれ。と言われている。何故だ。
 次にゆえを見ようとし、正面に座る祖父の表情に気付き、言葉をなくした。
「生きてて、よかった」
 細い、老いた両の指が表情を覆い隠している。
 けれど、頬を伝うものは隠しきれていなかった。
「じ、じーちゃん……俺……おれ……」
「いいんだ。ちゃんと説明していなかった僕が悪い。みんな死んじゃったから、きっと理解してるだろうと思っていたんだ……。けど、久木ちゃんが死んだのも、娘たちが死んだのも、彼方がちいちゃい時だったんだよね……ごめんね、ごめんね彼方……。失うことのつらさを、知ってほしくなかった……」
「ちが、俺が! 俺が……」
 俺が、なんだろう。
 助けて欲しくて、うろうろ視線を彷徨わせる。
 ゆえさんはいつの間にかソファからいなくなっているし、隣に座る璃々はいるものの、玄関へ続く通路をちらちら眺めている。
 彼方からの視線に気付いた璃々はにっこり笑顔でぽんっと肩に手を置いた。
 うそでしょ置いて行かないで。そう必死な視線を向けたけれど、彼女はそろーりそろーり部屋を出て行ってしまった。
 残された彼方は現状を打開できる気がしなかったし、どうしていいのかもわからない。
「じーちゃん……ごめん。約束、やぶってごめん」
 守れなかったつらさを、大丈夫だと見送った相手が物言わぬ塊となって帰ってくることのつらさを、彼方は祖父の口からたくさん聞いていたはずだった。
 唯一の肉親である彼方まで死んでしまったら、老いた祖父は一人になるじゃないか。
 きっと、カレーを作ることもなくなってしまうだろうし、今よりももっと、たくさん後悔してしまう。
「本当に、ごめんなさい……。それに、俺、俺守って、二人が……しん、じゃった」
 ぽろり、涙が零れ落ちる。
 そうだ、死んだ。
 二人は、死んだんだ。
 その屍すら戻ることなく、遺された家族はどうなるんだろう。
「……この件は既に伝えられている」
「え? おじさんや、おばさんに、ってこと?」
 修の目から涙は消えていた。ただ、頬に残った水跡だけがその事実を示している。
「ソムニウムのことは本職が対応する。何故そこにいたか、何故死んだか、……むごいことだが、知らされることはないんだよ。戻らない亡骸に納得しない親族。それに対応するのは、お前じゃない。僕たちだ」
「そんな……そんなの……」
「いいか。お前は悪くない。誰も悪くない。生き残ったのは、ただ、運が良かっただけだ」
 ずずっと茶をすすった修が立ち上がり、彼方の横を通り過ぎる直前で立ち止まった。
「よく、頑張ったな。だが、武器は璃々ちゃんに返しなさい。命を張って守られた命を投げ出してどうするんだい?」
 ぽん、ぽん。
 きつい言葉に、優しいてのひら。
「あ、あ……おれ、おれそんなつもりじゃ、俺は……ただ、ただ……」
 困ったような表情は、てのひらで顔を覆い隠した彼方に見られることはなかった。
 もう一度だけ頭を優しく撫で、今度こそ修は自分の部屋へと戻っていった。

 

 ひたすら泣いた後、ふらっと外へ出る。
 ただ、外の空気が吸いたかった。
「あれ、どうしたの彼方くん」
「なんというか……はぁ、璃々さんどうにかしてください」
「ええ……」
 もしかしてずっと外にいたんだろうか。
 庭に置いてあるテーブルにお茶の缶を置き、灰皿にして煙草をくゆらせる璃々。そんな彼女をにこにこ見ていたゆえの視線が、まっすぐ彼方を貫いた。
 美男美女の真顔は怖い。怖いが、今は人がいたことに少しの疎ましさと、多大なる安堵を感じた。
「夢成さんどうだった? お話ちゃんとできた?」
「できた……んでしょうか。命を張って守られた命を投げ出してどうする、って言われました」
 うわあ。という顔が二つ出来上がる。
「相変わらずきっついねー夢成さん。私が十年間死んだって思われてた時もおもっそ抱き着かれたし、戦線から遠のくよう手回しするの推奨してきたし、身内に甘いのは確かなんだけど」
「は? 聞いてないが? あの老いぼれ……」
 死んだと思われていた。そう、璃々は言った。
 彼方は弱い。けれど、璃々は違う。ならば、話を聞かせてもらえるなら、答えが出るのかもしれない。
 ゆえをなだめる璃々に、あの、と声をかける。
「はいはい?」
「すみません。俺、どうしてもじーちゃんを説得したくて。でも、俺の命は、二人が繋いでくれたもので。わかんなくて……。死んだと思われてた話、その、よかったら……」
 つい、と顔を見合わせる璃々とゆえ。二人同時に仲良く頷き、璃々が椅子を引いた。
「まあ座りなって。私のじゃないけど」
「ふふ、そうですね、じーちゃんのだ。あと、俺の特等席は璃々さんが座ってるところなんです」
「まあじ? 変わる? 体温うつった椅子とか気持ち悪いだろうけど」
「いえ、いいですよ。このままで」
「そ? んー、ああそうだ」
 一瞬だけふらふら視線を彷徨わせたあと、ぽんっと手のひらを叩く。
「夢成さん、私のこと拾ったって言ってたでしょ。私ね、あの人に命救われて、顔覗き込まれたと思ったらいきなり、一緒に働かない? って誘われたの」
「じーちゃんめちゃくちゃ過ぎない?」
「璃々さんと絶妙に似てるのほんと腹立つんですがそれは……」
「ああ……今日同じことされたね……いや、働くことに関しては脅されたけど……」
 うっと視線を逸らした璃々が、強めに「それでそれで」と切り出す。
「色々あって断ったら、職場体験しようとか言い出して。半年だけ職場体験、そのあと就職、んで更に半年くらい働いて、職場内でもかーなり強い方になれたんだよ」
 えっへん、と張った胸が揺れる。
 思わず、本当に思わずちらっと見た瞬間ゆえから凄まじい圧が飛んできたので斜め上を見つめた。
 斜め上を見ている彼方は見えていないが、璃々もしっかりゆえへと圧を飛ばしていた。
「あー。まあそれで。ソムニウムにも種類があって。人の体を持つもの程強いって言われてるわけ。実際、人の形を保てるのは魂の強さによりけりだから。それが強い程相応の能力が持てるのね」
 ええと、と璃々が言葉を区切る。
「……まぁ。夢成さんと私っていうつよつよコンビが向かったんだけど。いや強いのは夢成さんで私はおまけみたいなもんだけど。今ならタメ張れると思うけど。まあ。私を庇って夢成さんが負傷。ソムニウムの狙いは私だったみたいで、体内に取り込まれまして」
「は?……はあ?」
「あー、私も聞いた時そんな反応したなあ……」
 呑気な声にもう一度同じ単語を繰り返しかけ、気合でとどめた。
「なんか知らんけど私に用事あったみたいで、お話だけして解放してもらったの。あいつらにも派閥があるみたいでね。彼は穏便派っていわれてる、人間との争いを好まないタイプだったようで」
「じーちゃん、怪我したのに?」
「怪我したのに。まあ、邪魔したから死なない程度にやりましたーって認識だと思うよ。根本的にずれてるから、あいつらって」
 なるほど、と頷く。そして、首を傾げてしまった。
「話し合いだけで出られたなら、十年間という時間は何故なんですか?」
「多分だけど、あいつの特殊能力でしょ。己の持つ空間の時間を現実世界から乖離させるとか、そんな」
「え、っと。つまり、その、璃々さんは……」
 にっこり笑顔で、彼女は頷いた。
「平和に会話して解放されたと思ったら十年後だった件について」
ラノベじゃねーんですよ!」
「ほんっ、とだよどれだけ心配したと思ってるんですか」
「そうだねごめんね、毎年誕生日に連絡くれるくらいには心配してたもんね……」
「うーんこの。後で覚えといてくださいね」
「たった今忘れたわ。つうわけで彼方くんも忘れてね」
「ゆえさんはめちゃくちゃ嫉妬するし愛が重いんだなって理解しました」
「忘れて」
 ずるずると机に突っ伏した彼の耳は、少しだけ赤く染まっている。
「あははっ、ゆえさん可愛いですね」
「でしょう! ゆえさんは可愛いの!」
「夢成の血は怖い、そして私の話はいいんですよボケ老人夢成の話でしょボケ老人の」
「ボケ老人……」
 己の祖父をそう言われることにどう反応すればいいのかわからず、苦笑い。
 実際彼方も、このボケ老人が! と思ったことは一度や二度ではない為否定しにくい。つまり、家でも外でもふざけきった発言をしているんだろうな。という嫌な事実が確定した瞬間だった。
「璃々さん、俺からもお願いします。続きを」
「え? お? おう……」
 とはいえど、と困惑から言葉が続く。
「十年経った事実に気付かず、上司に仕事の報告しに行ったわけ。そしたらいるの夢成さんじゃん。老けてんじゃん。めっちゃ驚いたし……、いきなり抱きしめられて、必死な声で、本当に璃々ちゃん……? とか言われてみ。言葉失くすよ」
 十年前。何をしていただろう。
 あまり、覚えていない。もう会えない二人と、馬鹿やってたことだけは確かだ。
 いつか別れが来るなんて考えたこともなかった。漠然と、将来会う回数が減ったとしても、いつまでも馬鹿やってるだなんて……、そう信じていたんだ。
 重苦しい空気を払拭するよう、璃々が笑う。
「そのあと、お仕事する度死ぬな絶対守るってなーんにもさせてくれなくて。久木さん……、夢成さんのお嫁さんですね。彼女ドライバーやってたんだけど、めちゃくちゃ怒られて仕事させてくれるようになったんだよねー」
「馬鹿でしょあの人」
「じーちゃんのこと悪く言いたくないけど……、俺もそう思う……」
「私今でも夢成さんは生粋の馬鹿って思ってるー。ちゃんと敬ってるよ、特定個人の命を大切に出来るんだから。とか皮肉たっぷりに言ったその口で半泣きになるほど大切にしてくれるんだからさ?」
「じーちゃんの黒歴史バラすのやめて……いたたまれない……」
 顔を覆った彼方に、璃々はにまにまほっぺをつつきはじめる。
「でもそういうの知りたくない~?」
「めっちゃ知りたいです! 今度じーちゃんからかいます!」
「っぱ夢成の血だわ」
「薄まってもこの性格。共に過ごすって怖いですね」
 あーこわこわ。と肩をすくめる二人に、彼方はぷっくり頬を膨らませる。すぐ、璃々につつかれて空気が抜けたけれど。
「そういう二人もそっくりですよ。夫婦なんですか?」
 ぱちくり顔を見合わせ、なんともいえない空気が漂い始める。
「え、なんか悪いこと聞きました……?」
「いや? べつに? まあ、私が璃々さんを好きなのは事実ですけどね」
「私もゆえさん大好き~。ま、歳食うとめんどくさいことが多いのよ。一緒には住んでるけどな!」
「ええっと、つまり。事実婚?」
「そゆこと~」
「ふふふ」
 祖父に似た二人は、もしかすると祖父以上に面倒なのかもしれない。あるいは、似た者同士が集うから面倒くささが増すのか。
 そんな思考を悟られないよう話題を変えようと思った瞬間、ぴろりん、ぴろりんと机に置かれたスマホが二回鳴った。
「は? 時間外労働はやめろっつってんだろ。夜中だぞ」
「えーもう私運転したくないんですけど」
「せっかくお泊りの許可もらってたのにねー」
「はあ」
 溜息が揃い、同時に立ち上がる璃々とゆえ。
「んじゃ、私ら仕事入ったから。夢成さん説得できなかったらナックル預けといて。そのうち回収するわ」
「それでは失礼しますね。どうか命をお大事に」
 灰皿代わりにされていた空き缶も、スマホも、煙草も、全て机の上からなくなった。
 もしここで引き留めなかったら、一生後悔するかもしれない。
「ま、待って!」
 すたすた歩く璃々が立ち止まり、彼女が歩みを止めたのを認識してからゆえがゆっくり振り返った。その視線にあるのは、同情。
「俺も連れてって……お願い。今行かないと、多分、一生後悔する。後悔なんかしたくないから、するくらいなら……」
 口ごもった彼方に近付くのは、璃々じゃなくゆえだった。それも、溜息を隠さず盛大に吐き出して。
「ゆえさ、ん……?」
 がしりと掴まれた頭は、めちゃくちゃ痛かった。
「死にかけても尚命の価値が低いようですね。どこぞで死なれると目覚めが悪いので、璃々さん、連れて行きましょうか」
 ゆっくり手は離されたけれど、心臓はばくばくうるさかった。
「ほら、行きますよ……?」
「はいッ!」
 今日彼方に向けられた圧の中でも、一番恐怖を呼び起こすものだった。
 目は鋭く、人当たりのいい笑顔も消えていて。
「車、まわしてきます。待っていてください」
「あいよ~」
 ひらひらと手を振って見送り、ついぞ振り返ることのなかった璃々が、ようやく彼方を見た。
「怖かった? ごめんねぇ。お詫びにいいこと教えてあげる」
「めちゃくちゃこわかった……こわい……いいことおしえてりりおねえさん……」
「んふっ。……夢成さんによって前線を遠のいて隠居生活することになったの。程よく時間が経ったら、戸籍上から、何もかもから、私という痕跡を消すつもりだった」
「え、え?」
「だから、私ね。死んだってわかるだろうに十年も連絡し続けていた、してくれてた、諦めの悪いあの人にさよならしに行ったの」
 ふわっと、思い出すよう柔く笑顔を浮かべる璃々。
「あなたは普通に、幸せに生きて死んでほしい、わかってほしい、まあそんな感じのことを言ったの。そしたらね、あの人なんて言ったと思う?」
「なんて、言ったんですか?」
「わかりませんが? じゃあ今ここで殺してください。そしたら幸せに死ねます。……だってさ」
「ぶっふ!」
 盛大にふきだした彼方は悪くないだろう。多分。
「いやあ……負けたわ……完敗だわ……ああもういいやってなったもん……」
「強火思考もそうだし愛が重い」
「くそわかる。……ね、さっきさ」
 幸せそうな笑みを消し、にこにこ笑いに戻った璃々。
「死んでもいいって言おうとして、やめたでしょ。だめだよ、この仕事やってる人にそういうこと言ったら」
「そう、ですね」
 思い出すのは先程の光景。
 いつもふざけていて、時には真剣に叱ってくれる。そんな祖父の涙。
「命は軽いんだよ。すぐ、なくなる。大事な人の命を守るなんてかっこいいかもしれないけど、実力も伴わない人間が言ったところでお笑い種なんだわ。かたき討ちだってそう。きみは、なんでそんなにしがみつくの?」
「……それを、確かめたいんです。だから、連れて行ってください」
「いいよ。まぁ私は強いからきみのこともゆえさんのこともしっかり守ってあげる」
 ゆえの名前に、彼方が顔をきゅっと顰める。
「ゆえさんは、守られたくないと思いますけど……」
「適材適所よ。命は私が守る。私の精神は、あの人次第だけどね」
 ひく、と顔が引きつるのを感じた。
「お似合いですね、二人とも」
「だといいな。……あ、ゆえさんだ~」
 ぶんぶんと手を振る璃々の背に、彼方の視線が刺さり続けた。


 どうしてこうなったんだろう。
 頭の中を占める疑問に答えてくれるものは誰もいない。
 廃墟にある一室に身を隠し、ただがたがたと震えることしかできない。
 こんなことなら、どうして。
 ぐしゃぐしゃと肩口まで伸びた髪をかきまぜる。ヘアゴムは、いつの間にかなくなったらしい。
「どおおおこおおお? ねーえええ」
 遠くから聞こえるノイズ交じりの悍ましい声に、びくりと彼方の体が震える。
「逃げなきゃ……」
 まずは、廃墟を出なければ。
「で、も……」
 いつもの三人組で肝試しに来たはずだった。
 一人が怖がりだから、比較的安全な、なんちゃってホラースポットを選んだはずだった。なのに。なのにどうして。
 何故、化物に出会ったんだろう。
 考えても彼方の頭に答えなんか出てくるわけもなく。
 震える足腰でなんとか立ち上がることに成功した。
 本当はもう動きたくない。でも、動かなきゃ逃げられない。
 ここに身をひそめるまで散々追いかけられ、死なない程度にいたぶられ、体中傷だらけだ。それも、致命傷になるような傷はなく、せいぜい切り傷だとか、打ち身だとか、転んでできたものばかり。
「よし……! 逃げるぞ……!」
 言い聞かせるよう、化物に聞こえぬよう小さく力強く声を出す。
「もうおしまい?」
「ひっ……!?」
 後ろから聞こえたざらざらした声に、ばっと振り返る。
 扉は開いていなかった。なのにどうして。
「みーつけた」
 きゃらきゃらと不愉快な笑い声をあげるそれは、まるで枯れ木のようにやせ細った体をしていた。それだけでなく、体もまるで木でできている……いや、木そのものの見た目をしている。
 時折みかける、手足の生えた野菜のようなものだ。ただ、それが原木で、更に言うなら目も口もついているだけで。
 視線を外さぬよう化物をじっと見つめ、じりじり後ずさる。
 そういえばここは廃墟だった。窓枠にはまっていたはずの窓ガラスは存在せず、恐らくはそこから侵入したんだろう。
 化物の容姿を認識できたのも、いつの間にか最上階にいて、ちょうど月明かりが入りやすい位置だったから。
 だからなんだというんだ。
 仮にそこから飛び降りた場合、命の保証はない。骨が折れたら逃げられなくなる。最悪死んでしまう。
 どちらがいいかなんてわからない。
 どのみち、死んでしまうだろうから。
 などという思考を追い払い、扉がなくなった入り口まで後ずさることに成功した彼方は勢いよく回れ右して走り出した。
 行く先は決めていないが、なんならここがどこなのか逃げ惑うあまり理解していないが、とりあえず階下へ逃げ、エントランスホールを抜け、外に出れば救いの手があるかもしれない。
 ――そう、思ったのに。
「追いかけっこ、あーきた」
「なんで、なんでだよ! なんで後ろにいたのに! 前にいるんだ!」
「……?」
 きょとり、と首を傾げる化物。まるで人間のような仕草に、ぞわっと全身の毛が逆立った。
「返せよ、二人を返して……なんで殺したんだ……」
 不思議そうだった化物は、その言葉ににたあっと笑う。嗤う。
「邪魔だったからあ」
「じゃ、ま」
 何を言われたのか、理解が出来なかった。
 じゃま、邪魔。
 一瞬遅れて理解できた言葉に、今までの恐怖も忘れ拳を握り、走り出していた。
「ッ、お前は、お前は殺す!」
「よわいくせに」
 きゃは、と笑った化物に拳を叩きこもうとするも、振り上げたそれが当たることはなく。
 彼方の視界から消えたと思ったら、体中に激痛が走った。
「がっ……、お、ぇ」
 壁にたたきつけられ、血と吐瀉物が勝手に口から流れ出る。
「いた、い……あ、ひっ、死にたくな、やだ、あ、あっ……」
 おもちゃで遊ぶ子供のように無邪気な笑顔。それを見た彼方から戦意が抜け出ていくのがわかった。
 怖い。
 痛い。
 死にたくない。
 こいつは、簡単に人を殺せる。
 化物はただゆっくりゆっくり歩いているだけ。にも関わらず、距離はどんどん縮んでいた。
 それはそうだろう、恐怖に支配された彼方の体は、ぴくりとも動かないのだから。
 ぴたり、化物が止まった。
「ねーえ。もう動かない? おにごっこあきた? 飽きた! 飽きちゃった!」
 あはあは笑う化物から、すっと表情が抜け落ちた。
「飽きたわ死んでいいよ」
「やだ、いやだっ! たすけて!」
 死を覚悟した。
 なのに、痛みは訪れなかった。
「いき、てる」
 咄嗟に固く閉じたまぶたをあげれば、視界に入ったのは暗くも鮮やかな赤。暗闇でも目立つ赤が髪の毛だと、一瞬遅れて理解した。
「そう、生きてるよ~。遅くなってごめんね? ちょぉっと旧友と酒飲んでたからさあ。時間外労働はお断りってんだけど、一番近いのが私だったみたいで」
 次に理解したのは、赤を持つのが女だということ。
 そして。
 大鎌で化物の腕を、切り落としていた。
「あ、ああああああああああ腕! 腕! ゆるさない! ゆるさない!」
「うっさ」
 心底嫌そうに吐き出された溜息。
 それと同時に、もう一本の腕が宙を舞っていた。
「あ、え? なん、なに……」
 何一つ現状を理解できない彼方の困惑をよそに、女はにやっと笑った。
「少年、いや青年か? まぁどっちでもいいや。そこの若いの!」
「あ、俺……?」
「そうそう。お名前は? 私はね、青葉璃々。青い葉っぱに、瑠璃の璃とのま、漢字が続くとき使うあれね。あれであおばりり。きみは?」
「ゆめなり、かなた。夢が成るで夢成。彼に方向で、彼方……です」
「そう……」
 一瞬だけ遠くを見つめた璃々は、すぐにぱっと笑顔を浮かべた。
「じゃあ彼方くん! あれ、殺す?」
 ぽいっと彼方の前に投げ捨てられたのは、黒くてシンプルなナックル。
 からんからんと転がったそれを拾うことなく、ただ困惑を目に乗せ彼女を伺った。
「それはねぇ、世間一般ではメモリアって言われてる。まぁ所謂武器だ。きみは多分それが合うだろうよ」
 視線をまるっと無視してからから楽しそうに笑う璃々。
 その笑い声も、化物の呻き声と同時に止まった。
 化物にまっすぐ視線を注ぎながら、真剣な表情で口を開く。
「さあ、選んで。このまま何もなかったことにしていつもの日常に戻るか」
 彼方が、はっと目を見開く。
「友達の仇をうつか」
「ころす、ころすころすころす!」
 璃々と化物の声がかぶって聞こえたと同時にナックルを手に取り、無意識にはめ込んだその瞬間。
 今まで感じたことのない力が漲るような、そんな感覚に陥る。それはきっと気のせいじゃなく、このナックルが持つものなんだろう。
 今なら怖いものなどない気がした。
 何にも負けないと思った。
「うるせえよ! 死ねボケ! あいつらを、親友をかえせ!」
 立ち上がった彼方の直線上にいた璃々が困った顔で彼を避ける。今の彼方には、化物しか見えてないだろうから。
 脱兎のごとく走り出した彼方を避けた璃々は、ポケットから煙草とライターを取り出し火をつけ、スマホに指を滑らせた。
 そんな彼女の存在をすっかりさっぱり忘れた彼方は、先程は避けられた拳を見事に叩き込む。
「ふざっけんな、お前が、お前が! くそが、くそが!」
 ばき、どか、ぐしゃ。
 何度も何度も拳を振り上げ、叩きおろす。
 避けることもできず、殴られているため喋ることもできず、呻き声しか出せずにいる化物はとうとう壁まで吹き飛ばされ、凄まじい音と共にずるずる床へ崩れ落ちた。
「お前のせいで、お前のせいで……!」
「ぁ、ぉまえ、の、せい。きゃは、きゃははは! おまえの魂は特別! なのに武器ももたない愚か者! お前のせいっていうお前のせいであいつら死んだ!」
「は……?」
 これでとどめだと握った拳から力が抜けていく。
 そうだ、そういえばそうだ。
 資質がないと言われていたから決行した肝試し。化物は、ソムニウムは素質持ちしか狙わない。
 二人は、彼方を守ろうとして、死んだじゃないか。
 ――じゃあ何故、彼方はこれを使えている?
「はぁいそこまで。ごめんねこの粗大ごみの言うことは気にしなくていいよ」
 ふわ、と香る苦さに、軽い言葉に振り返るより先早く、大鎌が化物に振り下ろされた。
「喋るごみはお掃除しましょうね。……いや、ほんと気にしなくていいよ。マジで」
 困ったように大鎌を抜きあいた左手で煙草を持ち、ぽいっと化物の上に捨てヒールの高い靴でぐしゃっと踏み抜いた彼女にも、化物の言葉にも、理解が及ばない。
 理解したくない。
「俺、おれのせいで、二人、死んだんすか」
「……」
 からん、からん。力の抜けた指から、ナックルが抜け落ちる。
「資質ないって、じーちゃんと検査行ったのに。でも、俺今、使いましたよね。使えましたよね? それ、俺の、俺の……」
 かちり。ライターの音に、彼方は顔を上げる。
「彼方くん。きみのじーちゃんは説明してくれなかったの?」
「え、説明……?」
 呆れ顔の彼女は、祖父と知り合いなのだろうか。
 それにしては、彼女は若い。恐らく彼方より少し上くらいだろう。薄く施された化粧で年齢を誤魔化している可能性もありえるだろうが。
「素質と資質は似ているようで違うんだよ。資質は天性の才能。素質はそこにあるポテンシャル。うまれつき持っているもの。……まぁ、つまり魂だ」
「魂……」
 呆れ顔から一転、どこまでも真剣な表情に、紡がれる言葉に、彼方は頭の中でも言葉を復唱する。
「魂は生きとし生けるもの全てが持ってるでしょ? だからね、それだけで狙われる。ただまぁ、資質持ちの方が美味しく見えるのは確かなんだろうね。んでもって、ここはあいつの根城だったみたい。うまいこと気配を隠してたし、……まぁ何より弱かったし。……ともかく、ここに来た以上これは避けられなかったよ。誰のせいでもない」
 慰められているのだろうか、と考え璃々の表情を伺うも、同情なんてそこには一ミリたりとも存在しなかった。
「同情、ですか?」
 それでも、きっと璃々は彼方より大人だ。隠しているのかもしれないと、気付けば口からそんな言葉が飛び出していた。
 だとしたら、不要だと。そう言おうとしただけなのに。
「あっははは! 同情! 私には似合わない言葉だねぇ? あーウケる」
 同情しているのか聞いただけなのに、何故彼女はこんなにも、腹を抱えてまで笑っているのか。恐らく誰しもそう思うだろうが、残念なことにここは彼方と璃々しかいない。
 いなくなってしまった。
 これがおかしいのか、そうじゃないのか。
 疲弊しきった頭では、ただ茫然と見つめる以外の選択肢がなかった。
「つけあがるなよガキが。私はお綺麗な人間じゃない。あれは事実で、きみは知らなかったから説明しただけ。あーいや、そんなこたどうでもいいんだよ。後処理が来るまでに聞かなきゃなんだって。つか私が怒られるんだよ~」
 最後の一言はとても小さい声だったが、しっかり耳に入った。
「怒られる?」
「そう。とっても。笑顔で圧かけられちゃう。誰にか知りたい?」
「ああ、はい、まぁ」
「おめーのじーちゃんだよ」
 正直興味がなかった。聞きたくないと言えばよかった。しかし、既に遅い。
 真顔で言われた言葉は、彼方を現実に戻すには十分すぎる効力を持っていた。
「なので選択肢をやろう」
「また、選択肢ですか」
 祖父への恐怖心でそれどころじゃない為、思わずつっけんどんな言い方になってしまう。それすらも璃々はにやにやにこにこ受け流したけれど。
「一つは、床に転がるそれを私に返し、全てを忘れ被害者として日常に戻ること」
 つ、と人差し指を立て、続いて中指を立てる。
「もう一つ。……それを受け取り、ソムニウムと呼ばれる化物を八つ当たり紛いに殺して回ること」
「八つ当たり、って……」
 きょとり、首を傾げる璃々がどこか化物とかぶって見え、ごしごし目をこすった。
 こんなにも綺麗な人が、命を助けてくれた人が、化物なわけないのに。
「だってそうでしょ。今仇は取った。じゃあもう戦う理由はない。あるとしたらお綺麗な正義感か、ソムニウム全てを恨んで殺しまわる八つ当たりだけでしょう?」
 戦い、というにはただ殴るだけで戦意すらも喪失してしまったお粗末なものだが、戦いで熱くなった体に冷や水をぶっかけられたような気分だった。
 体が途端に寒くなる。
 にこにこと笑う彼女が、異質なものにしか見えない。
 それなのに、理解してしまう自分がいる。
「それは……でも……。それで、自分を保てるなら、必要なんじゃないですか」
「そうだね。で、きみにそれは必要かい? 彼方くん」
 絞り出した声すらも楽しそうな声に上書きされていく。
 何か反論しなければ、でも、何を。
 考え込み、しまいには涙が滲んだ彼方を見て、璃々が慌てたように大鎌を投げ捨て、そっと優しくその涙を人差し指でぬぐう。覗き込んでくる表情はどこからどう見ても慌てていて、より一層わからなくなった。
「ごめんね、いじめるつもりはなかった。でも~、そのぉ……、ほらぁ、夢成さん過保護過激派じゃぁん……。戦わせたのバレたら私タコ殴りにされちゃうからぁ……」
 視線をうろうろとさせ、あまりにも情けない声を出すものだから、彼方は自分でもびっくりするくらい大きな声で笑ってしまった。
「ひぇ……笑われた……夢成の血こわ……」
「ふふっ、あははっ、はぁ……そっすね……じーちゃん怖いもんな……」
「ちょーわかるぅ……」
 ふふふ、あはは、はぁ。
 揃った溜息と同時に、璃々はナックルを拾い上げる。
「というわけで回収したんでいいよね? 怖くて痛い思いしてまで他人を助ける義理ないでしょ」
「ありますよ」
「なんでぇ……」
 璃々の細い指からナックルを取り上げたら、今度こそ泣きそうな顔をした。それに少しばかり罪悪感が刺激されたが、言ってはいられない。
「俺、ばーちゃんも、かーちゃんも、とーちゃんも殺されました」
「はい、存じております」
「まだ、そっちの仇はとってないんで」
「ほら、そこは強くて偉大なるじーちゃんがとってるかもしれないじゃん」
「じーちゃん、酒癖悪いでしょ」
「ああ……」
 死んだ目で遠くを見つめる璃々。
 彼方も思わず同じ目をしかけたが、まずは彼女を説得しない限り祖父を説得できるわけがないのだ。
「俺ね、とーちゃんのことも、かーちゃんのことも覚えてない。けど、じーちゃんがつらそうに話すんだ。もっと生きるべき人間だった、って。だから……だからさ……」
「……そう。ま、あのアホンダラを説得できるとは思えないけど、一緒に説教くらいは受けて差し上げよう」
 投げ捨てた大鎌を拾い上げた璃々は、どこまでも明るい笑顔を彼方に向け、聞こえた足音にきつい視線を投げた……かと思えば、これでもかというほどの笑顔を浮かべた。
 視線を辿れば、黒のスーツを着こなした眼鏡の男が無表情に歩いていて。彼は璃々の笑顔を見て口元を綻ばせる。
「あ、いたいた。お疲れ様です璃々さん」
「あ~ゆえさぁん! ちょーつかれた! カフェラテ!」
「はいはいどうせ疲れてませんよね。カフェラテは買ってあげますけどね」
「は? ちょー甘やかしてくれるじゃん好き」
「ついでに煙草も買ってあげましょうね」
「え何禁煙推奨派の奢る煙草怖すぎ何が狙いだ貴様」
 ざりざりと後ずさりし、彼方の後ろまで下がりそこから顔だけ出し威嚇を始める璃々。
 助けを求め、ゆえと呼ばれた男を見る彼方だったが無言で首を横に振られてしまった。
「夢成さんに相当怒られそうなので。せめて遺品に煙草くらい買ってあげようかな、と」
「殺すな殺すぞ」
「あぁ怖い怖い」
 くすくす笑うゆえと威嚇する璃々。
 そしてそれに挟まれた彼方。
「あの……俺を挟まないで……」
 絞り出した懇願は、聞き届けられなかった。


 彼方が待ち合わせ場所についた時、既に二人は揃っていて、妙にそわそわした雰囲気で彼を迎え入れた。
「おっそいぞ彼方! 待ってたんだからな!」
「彼方、こいつは頼りにならない。お前だけが盾なんだ……!」
「いや人を盾にすんなよ圭太。つか早いなお前ら、待ち合わせには十分の時間だろ」
 ポケットにいれたスマホで時間を確認すれば、待ち合わせより五分も早い。それよりも早くここに着き、そわそわしている二人は一体何分前に来たのやら。
「いやあ、楽しみでさあ。圭太絶対叫ぶだろうし~」
「多分叫ぶ……僕は知っている、詳しいんだ……」
「あーあーびびってら……。まいっか。行くか~」
「おー!」
 三人揃って拳を突き上げ、目的地へと歩を進める。
 待ち合わせ場所を目的地から近い場所にしたため、五分も歩けば辿り着くだろう。
 一番最初についた豊がコンビニで買った駄菓子を開けながら歩む道のりは、最高に楽しかった。
 そうして辿り着いたのは、インターネットに掲載された写真通りの見た目をした廃墟。
「ここが……ホラースポット……!」
「圭太ぁ、そんな構えんな? 怖くなるだけだぞ~?」
「しかし、しかしな豊。怖いものは怖いんだ……」
 ちら、と見ただけでもそれなりに敷地面積が広く、月明かりすらも差し込まないだろうことが容易に想像できる。
 階層は五階建てとそうでもないが、これを探索するとなると骨が折れるだろう。
 結局家の懐中電灯を拝借してきた彼方が、リュックから取り出しにやりと笑った。
「ちゃらららっちゃら~。懐中電灯~。一つしかないけど十分でしょ」
「さすかなた。おれ忘れてたわ」
「コンビニで買おうとして忘れていた……。さすかなた」
「さすおれさすおれ。これはびびりな圭太くんに授けよう」
「ははーっ」
 こうべを垂れ恭しく受け取る圭太に馬鹿笑いをする豊。
 いかにも重要で貴重なアイテムっぽくゆっくり渡す彼方も、にやけ顔が隠せていなかった。
「一応家で確認したけど、ちゃんとつくでしょ?」
 彼方の問いに圭太がかちりとスイッチをいれる。
 光度はそれなりにあり、廃墟探索でも役立つことは確実だろう。
大丈夫だ、問題ない。まだ舞える」
「舞ってすらないんだよ今からだよ今から!」
「うるせえ僕の精神は既に恐怖で埋め尽くされている、恐怖を克服するという異業を成し遂げている僕は家を出る前からずっと舞っているんだ!」
「馬鹿だろお前ら。はよ行くぞ」
「あいよー」
「まっ、懐中電灯は僕が持ってるだろう! 先に行くな置いてくな泣くぞ!」
 既に泣きそうだ、という無粋なつっこみは口から出ないし、考えることもない。何故ならいつものことだから。
 いつものノリとテンションのまま廃墟に突入した三人を建物内から何者かがじっと伺っていたなんて、知る術もないこと。

 

 踏み込んだ廃墟内は静かで暗い。
 緊張のせいか張り詰めた空気に、誰ともなく唾を飲み込んでしまう。
 圭太は既にがたがた震えながら彼方の服をぎゅうっと握りしめ盾にしているし、豊も多少なり思うところがあるのか表情を強張らせていた。
 人間、自分より感情を乱しているものが居ると落ち着いてしまう習性がある。
 彼方は呆れ半分、仕方ないなぁという気持ち半分で圭太の手をはがした後握ってやる。ついでに豊の手も。
「はいはい、俺ちょー怖いから手握っててね」
「さすかなたあああ」
「さすかなた。顔のいい男は性格までイケメンってか。顔面偏差値をおれにわけろ」
 知らんがな、と返しつつ廃墟内をきょろりと見渡す。
 ガラスが割れた自動ドアを入ってすぐにあるのはエントランスホール。
 物はほとんどなくなっているが、せわしなく動く懐中電灯の明かりで照らされる範囲には段ボールやスナック菓子のごみなどがちらほら落ちていた。
「圭太、明かり動かし過ぎ。なんもわからん」
「それな~。大丈夫、彼方がついてるから」
「彼方様、哀れな子羊たる僕をお守りください……」
スケープゴートにされてる俺こそが哀れな子羊だが?」
「んっぶふ」
「ふふふふ」
 少しばかり張り詰めた空気が飽和する。
「全部の部屋回るんでしょ。じーちゃん飲みに行ってるけど、さすがに日付回ったら帰ってくるだろうしちゃっちゃか行こうぜ」
 彼方の言葉に二人は頷く。
 手を繋ぎ真ん中にいる彼方が一歩先に進む形で、エントランス横の通路へ足を運ぶ。
「な、なあ、そもそもここって元々なんだったんだ」
「あ、それ俺も気になる」
「えーっと確か、昔有名だった会社? らしいよ。規模が大きくなって本社を別にうつしたんだけど、そのあと入った別の企業が馬鹿やって倒産、買い手もつかないまま放置されて何十年も経過してるってさ」
 豊の言葉に、圭太が思い切り顔を顰める。
「それ、手入れされてないまま経年劣化で崩れる可能性もあるってことじゃ……? というか」
 と、圭太は懐中電灯の明かりを天井に向ける。
 照らされた部分は、どこを見ても欠けたりひび割れたりと、少なからずまともな状態ではなかった。
「床も酷いから、まさかとは思ったが……。これ大丈夫か? 別の意味で怖くなってきた」
「大丈夫っしょ、今まで崩落してないんだからいきなり今日崩落するとかないない」
「うーん。まぁ、大暴れでもしない限り大丈夫じゃないか? あとは地震とか」
 豊のあっけらかんとした、彼方の多少心配そうな声に、圭太はひとまず考えるのをやめた。
「神様仏様彼方様、僕をお守りください……」
「ねーえ、なんで毎回俺に祈るの? ご利益ないよ?」
 ぎゅむむっと強く握られた手が少しだけ痛むも、離すことはせず呆れ切った視線を向ける。その先にいる圭太は暗闇でもわかるくらい青白い顔をしていて、彼方も考えるのをやめた。
「え? なあ、今あっちの方になんかいなかった?」
「やめろ僕を殺す気か」
「さすがにしゃれにならねーよ豊。見間違いじゃないの?」
「や、本当に! なんか、黒いのが見えたんだって! お前ら見なかったの!?」
 圭太の握る力は更に強くなり、手が白くなってきた。同時に豊も握る力を強め、それだけではなく、小さく震えているのがわかる。
 つまり、嘘ではない。
「あー。帰る?」
「帰る! 今すぐに!」
「やっだよ肝試しだぞ行こうぜ!」
「お前ら正反対に動き出すな腕取れるだろ!」
 動きは止まったしなんなら若干距離を詰めたものの、彼方を挟んで睨みあいを始める二人。
「帰る!」
「やだ!」
「……はぁ」
 これみよがしに溜息をついても、互いしか目に入っていない二人には無意味だろう。実際なんの反応もされない。もう一度吸った息を深く吐き出して、二人から手を離す。
 ぱん、ぱんと顔の前で手を叩いてやれば、驚きの視線が二人分。
「はーいはいはい喧嘩しないの。俺も正直帰るのは賛成。お化けじゃなくても、廃墟とかソムニウムの住処になってるって授業で言ってたでしょ。俺二人が死んだらやだもん」
 最初はぶすくれていた二人だったが、死んだらやだ、という言葉を耳にした瞬間気まずそうに目を伏せた。
 最初に顔をあげたのは豊で、無理矢理笑顔を作っている。
「……まっ、思い出とかたくさん作れるしな! 今度彼方ん家泊ろうぜ、じーちゃんの作ったカレー食べたいし!」
 圭太も、気まずそうな表情のままこくんと頷く。
「釣りもいいな。海釣り、したくないか?」
「えー、俺今日カレー食べたし……海は悪くないな」
「は? ずっる。おれのカレーは?」
「そこになければないですね」
「彼方の家に泊った翌日海釣り、どうだ?」
「さんせー!」
 声が揃い、三人揃ってあはあはと笑いだす。
「はー帰ろ帰ろ。まだ時間余裕あるしどーする?」
「彼方ん家行ってカレーもらいたい」
「……正直ぼくも食べたい」
「ええ、二人分も残ってたっけ……」
 修はやはり歳だからか肉をよけて食べる癖がある。にも関わらず大量に入れられた肉は、全て食べ盛りである彼方の為。
 それをよく理解している彼方は、カレーが食卓にならんだ際たくさんおかわりする。
 記憶が確かなら二人分程度あったかもしれない、そう一つ頷いた彼方に二人がわっと声をあげた。
「温めなおさなきゃだし、さっさと帰ろうぜ。じーちゃんもお前ら相手ならカレーくらいどーこー言わないと思うし」
 にこにこ笑い、彼方が入り口に向かって歩き始める。
「じーちゃん、僕たちにもやさし、彼方ッ!」
 突然の大声、痛む背中。
 廃墟の床に倒れしたたかに体を打ち付けた彼方が、あいたた、と腰をおさえ立ち上がろうとし、なんなら文句を言おうとし、できなかった。
 開いた口は、閉じようとしてもうまく閉じることができず、魚のようにはくはく動かすことしかできない。
 化物がいた。
 懐中電灯はどこかへ転がって、スイッチが切れてしまったか、ぶつかって壊れたのかもしれない。
 暗がりでうすらぼんやりと見えるシルエットは、人間のそれではなく。
 腕のようなものから、何かが生えてぷらぷら揺れていた。
 ……あれは、圭太だ。
 大柄な体躯も、無駄に鍛え上げられた筋肉も。
 じゃあ何故、圭太の背中から腕が生えているんだろう。
 違う、化物から圭太が生えて……いや、そうじゃない。
 腕が、圭太の体を貫通し、持ち上げられているんだ。
「うわ、うわあああああ!」
 理解した瞬間彼方の喉から絶叫が飛び出てきた。
 決して叫ぼうとしたわけじゃなく、助けなければと強く思うのに。
「けいッ、圭太! けいたァ!」
 彼方の叫びで我に返ったのか、豊が化物目掛けて走り出す。急いで立ち上がり腕を掴むと、今までにないくらいきつい視線を向けられてしまい、一瞬たじろいだ。でも、そんなことをしている場合じゃない。
「ばっかお前、逃げるんだよ! 敵いっこないだろ!」
「じゃあ圭太を見捨てんのか!?」
「じゃあ勝てんのかよ! 言っただろ、言っただろうが! 俺は! 二人に! 死んでほしくない!」
「今圭太助けねえと、二人にはなんねーだろ!」
 いつまでも続くかにみえた口論は、どさり、ぐちゃバキッ。という音で止まった。
 ゆっくり、ゆっくり音がした方を見る。
「けい、た……」
「っそだろ……」
 怒りが消え、そのかんばせが絶望に塗れたのも仕方がないことだ。
 化物が、親友の頭を踏み抜いていたんだから。
「けいた、けいた、うそだ、あ……なんで……おれが誘ったから……」
「ばっか! 走るぞ!」
 すぐさま我に返った彼方が、未だ呆然としている豊の手を取り走り出す。
 本当は入り口に逃げたかったが、化物が道を塞いでいるため不可能。
 ならば、窓を探すか、なければ二階から飛び降りるしかない。
 マジでガチの馬鹿。
 その単語が、脳裏をよぎるのだった。

 

 走って、走って、ひたすら走って。
 行く先々に先回りしてくる化物は、暗くてよくわからないものの人間と呼べる容姿はしていなかった。
 しばらくの間呆然とし続け、手を引かれるだけだった豊もしばらくすると正気を取り戻し必死に走り続けた。
 そうして、戻って来たエントランスホール。
 床に転がっていたはずの圭太は姿を消していて、あれは夢か幻だったんじゃないかとすら思えてくる。
 けれど。
 来た時にはなかったはずの赤い液体と、ばきばきに割れて転がった懐中電灯が現実だと告げていた。
「はぁ、は……、ゆたか、あとちょっとだぞ……」
「やっめろよおま、それ、フラグ……」
 圭太を連れて帰ろう。
 逃げている最中、そう決めた。
 しかし、肝心の圭太がいない。引きずった跡もなく、一体どこへ行ったというのか。
「……、俺、じーちゃんに言う。じーちゃんなら、人動かせるから……」
「うん……」
 周囲を警戒しつつ、水たまりを避け入口へ向かう。
 二人に気配はわからないが、見た感じ誰もいないことだけは確かだ。
 彼方が建物内に気を配り、豊は入り口から顔だけをそっと出しあたりをきょろきょろ見渡す。
「誰もいなさそうだ……。大丈夫だ、彼方。安心していいぞ」
「よかった……。これで、帰れるな……」
 ほうっと安堵の息をつき、豊の名を呼ぶ。
 帰ってこない返事に、はてどうしたのかと頭を傾ける。
「豊、こっちも何もいないぞ。今じーちゃんに連絡するから」
 ポケットに手を入れ、安心させるよう笑顔で豊を見た彼方は、その表情のまま固まることとなった。
「おにごっこ! つかまえた!」
 ノイズ交じりのざらざらした声。
 月明かりに照らされた体は、木でできていた。
 突然の明るさで目がくらみ、更に逆光で認識できたのはそのくらいだった。
 いや、それよりも。
 枝のような、腕のようなそれがぐるりと豊の首に巻き付いていて、顔が青紫に染まり口からはぶくぶくと泡を吹きだし、豊の四肢から、完全に力は抜けていた。
「は、あ、え? はぁ? いないって……どこから……なんで……」
「ふたりめ! おにごっこ! お前があ、ほしい」
「ヒッ」
 やっとたどり着いた出口。
 なのに、また逆戻り。
 さっきまで励まし合っていた友達も、今はいない。
「くっそおおおおおおお!」
 叫びをあげ、来た道を全速力で走り抜けることしかできなかった。

 

ソムニウム


 みんみんじゅわじゅわかなかなと蝉が鳴き、刺すような日差しが照り付ける夏の日。
 終業式も終わり誰もいない放課後の教室でこそこそ顔を寄せ合う三人組が居た。
「でもよ、肝試しつったってどこにそんなホラースポットがあるの」
 めんどくさそうな表情を隠しもせずスマホ片手に聞くのは夢成彼方。隔世遺伝である青い目と、日本人特有の黒い髪を肩口まで伸ばし後ろで一つくくりにしている。
「都内なんだからどこにでもあるだろーが。廃墟とかさあ」
 同じくスマホを手にしているも、真剣にホラースポットを検索しているのは井口豊。短くつんつんした黒髪に幼い顔立ちだ。
「行くのはいいけど、ガチで怖いのはちょっと」
 少し怯えたように眉根を寄せたのが原田圭太。三人の中でも一番体格がよく筋肉もついている、そんな彼はちょっとばかりびびりだった。
「お前らやる気なさすぎかよ~。高校最後の夏休みだぞ。楽しいことしようぜ楽しい事」
「それには賛成だけど……なあ?」
「な」
 明らかに乗り気ではない親友二人の連れない言葉に、豊はがっくりうなだれる。少しだけ顔を上げ縋るような視線を向けるも、片ややる気なし、もう片方は怖がりときたものだ。
 攻め口を変えよう。スマホをぎゅっと握りしめた豊は二人をしっかりと順番に見つめた。
「なあ、俺ら幼稚園からずっと一緒だったろ。高校も、一緒にしようとか言うまでもなく一緒だったじゃん。でもさ、大学、専門、就職。色々あるけど、これからはなかなか会えなくなる」
 珍しく真剣な言葉に、二人は思わず顔を見合わせた。
 そんな反応に、豊はぐっと眉を寄せ口を開く。
「なあ、いいだろ。俺は大学に行くから、バイトももっと忙しくなる。勉強もしなきゃならねえ。夏休み終わったら、あんま遊べなくなるんだよ。な、いいだろ?」 
 彼方と圭太がもう一度顔を合わせ、同時に息を吐く。それを見た豊がびくりと肩を震わせるも、向けられた視線は温かいもので、安堵の息をばれぬようそうっと吐き出した。
「なんっだよ水くせえなあ。ついでに俺は就職」
「最初からそう言ってくれたら、まぁ、比較的怖くない場所なら喜んで行くのにな。僕は進学だ。専門だけどな」
 親友たちの言葉に、思わず胸が熱くなる。それを隠すようにそっぽを向いて、豊はぽそっと呟いた。
「んだよ、全員ちげーじゃん……」
 残念そうな声音に「んだよ俺(僕)のこと大好きか」と同時に言ってけらけら笑いだすのを見て、豊も笑った。
 笑顔のままスマホに向き直り、ピックアップしておいたサイトを見せる。
「こことか、あんま怖くないらしいんだよね。霊障があったとかそんなのも聞かないし、雰囲気ある程度なわけ」
「ふーん……、わりと近いじゃん。なら俺もじーちゃんに怒られないで済むかな」
「ああ、夢成のじーちゃん何気厳しいもんな。昔僕ら三人で馬鹿やった時とか怖すぎて泣くかと思ったぞ」
「あれマジで怖かったわ。普段はめっちゃお茶目なのになー」
 手を顎に当て考え込んでいた彼方が、あ、と声を出す。
「ソムニウムとか大丈夫かな」
 その単語に、二人も考え込むよう黙ってしまった。
 ソムニウムは、人を襲う化物である。
 世間一般にはそう伝わっており、襲われる人物も決まっている。
 化物に対抗する為、特殊な能力の宿った武器を用い退治する。そして、その武器を使える資質を持つ人間が狙われるのだ。
 でも、と口を開いたのは圭太。
「資質検査、してるでしょ。僕はないぞ」
「おれもー」
「俺も……。でも、ほら、じーちゃんってソムニウムの存在を世間に広めて、法整備までしっかりさせたやべーやつじゃん」
 ああ、と頷いたのはどちらだったか。
「絶対反対されると思うんだよね。……それに、ほら。じーちゃん、若い頃は前線で戦ってて。俺のとーちゃんとかーちゃんも、ばーちゃんもそれで死んでて。すっげえ過保護だからさあ」
 気まずい顔で黙りこくった二人に、彼方はにやっと笑う。
「だから、嘘ついて抜け出そうと思いまーす!」
「おっまえ殺されるぞ」
「僕は知らないぞ、だがそこに痺れる憧れる!」
 お通夜テンションから一転。
 上がり切ったテンションを前に止める人間は一人もいなかった。
 何より彼らは高校最後の夏を満喫しようとしている、ただの学生に過ぎない。
 仲良し三人組は、馬鹿三人組とも呼ばれていた。
「いつ行く? 俺今夜暇」
「僕も今夜なら親がいないし余裕で出れそうだ」
「おれも夜暇よ、ちょー暇。終業式の日にバイトとかやってらんなくていれてねーの」
 知らずのうち顔を近付け、三人はにやにや笑った。
「けってーい!」
 揃った声にけらけら笑って。
 今夜の予定が決まったのだった。

 

 夕飯はカレーだった。
 祖父である夢成修は料理が得意ではなく、彼方が作ることの方が多い。だが、彼方は祖父の作るカレーが好きだった。
 これでもかというほど肉が入っていて、雑に大きく切られた野菜は食いごたえがある。
 成長期男子には大変ありがたい一品だった。
「あ、そうだじーちゃん」
「どうした?」
「今日、豊と圭太と遊ぶ約束してんだよね。行ってきていい?」
「ふーむ……」
 スプーンを手に悩む祖父に、彼方は内心焦っていた。
 彼方が思うに、化物討伐なんて異世界の話だ。現実にあるとはわかっているし、連日ニュースで死亡報告が流れたりしている。実際自分の両親は死んでいる。
 けれど、それも物心つかない頃の話で、両親の死すらも遠い世界の話にしか思えなかった。
 しかし、それを現実として生きてきた祖父は、勘がよく嘘を見抜く。
 バレたら三人揃ってお説教コース。
 それだけは避けなければならない。
「だめ? だめならいいんだけど……」
 演技ではなく、ちょっとだけ落ち込んでしまった彼方の肩と眉が下がる。
 それを見た修は、にこっと笑った。
「いいぞ、行ってきな。ただし、危ない場所には行かないこと。いいな?」
「やったあじーちゃん大好き!」
「ううん、反抗期をどこに置いてきたのやら」
「あはは……」
 反抗期真っ最中で、数時間後には約束を破ります。
 なんて言えるわけもなく、苦笑するにとどめる。
 そんな彼方を胡散臭そうに眺めていた修だったが、そうだ、とこぼす。
「どしたのじーちゃん」
「今日はかつての後輩と会う約束をしててな。帰るのは遅くなる」
「へえ、後輩。じーちゃんもう九十超えてたっけ、その人何歳なの?」
 再び考え込むしぐさを見せた修に、彼方はこてりと首を傾げる。
 後輩の年齢もわからないくらいぼけてしまったのか、それにしてはまだまだしっかりしているし。
「失礼なこと考えてるだろ、あー、二つ上だったよ。確か。若作りが得意でな。まだまだ若く見える」
「二つ上で、若い……?」
 ということは、九十代半ばか後半か。祖父の年齢を覚えていないが、九十代であることは確か。確かに年齢より若々しく足腰もしっかりしているが、頭は真っ白、手足はほっそりとしたおじいちゃんである。
「ま、会う機会があるかは知らないけど会えばわかるさ」
「へえ、名前は?」
「そのうち教えるさ」
 いつの間に食べ終わったのやら、にやにや笑った修は食器を流しに下げた後部屋へ戻ってしまった。
「若いおばあちゃん……?」
 対し、残された彼方は何を言われたのかよくわからないいまま、スプーンでカレーを掬った。
「ま、いっか」
 馬鹿三人組が馬鹿たる由縁は、物事を気にしないことも一端を担っている。大概の場合、やってることが馬鹿だからなのだが。
 なにはともあれ許可はとった。
 ならばあとは決行するだけ。
 食べ終わった食器を下げ、洗った後家を出るべく持って行くものリストを脳内で作り上げる。
 懐中電灯は必須、財布、スマホ、あとは何が必要だろうか。
 普段鞄などを持ち歩かない彼方だが、さすがに今日は必要だろう。
 家を出た後懐中電灯を買うという選択肢もあるが……、いや、そちらの方が修にバレる可能性が低くなるかもしれない。
 圭太のビビりっぷりを知っている修ならば、怖いってうるさくて。などと言えば納得してくれるはずだ。
「よし」
「なにがよしなんだ、なにが」
「うぉっ!」
 背後から聞こえた祖父の声にびくっと全身が震えた。
 振り返れば、きっと問い詰められる。
 そう感じた彼方は、皿洗いをしながら声をあげる。
「びっくりしたじゃんじーちゃん、皿割れたらどーすんの」
「そりゃすまんかったな。んで、そんなに考え込んでどうした」
「今日初めて聞いたんだけどね、圭太も豊も違うとこ進学するんだってさ。毎日馬鹿やれんのもこれが最後かあ、って思ったら気合入っちゃって」
 嘘ではない。
 これで誤魔化せるだろうか、とどきときしていた彼方は、頭にのせられた優しいてのひらに違う意味でどきどきすることとなった。
「馬鹿やれんのは若いうちだけだよ。ほどほどにな。マジでガチの馬鹿やったらタコ殴りだからな」
「がってんですじーちゃん!」
 若い頃化物との戦いを前線でやっていた彼は、やると言ったらやる。歳だろうときびきび動く彼にかかれば、体を何一つ鍛えていない彼方などいいサンドバッグだろう。
 一瞬だけ脳裏に、廃墟浸入は不法侵入……マジでガチの馬鹿。という言葉がよぎったがなかったことにした。
 乗せられたてのひらに力が入り、頭がみちみち軋んでいる気がする。しかしそれも一瞬で、再び柔らかく頭を撫でられた。
「それじゃあ行ってくるよ。後輩はまだ前線にいるから、話を聞くのが楽しみだ」
「えっその歳で!?」
「あはははは」
 思わずスポンジを落としばっと修を見るも、朗らかに笑いながら玄関へ続く廊下へと消えていった。
「九十半ばから後半の、現役おばあちゃん……?」
 ソムニウムに劣らずの化物じゃなかろうか。
 脳裏に筋骨隆々のおばあちゃんがよぎるも、ぶんぶん頭を振って投げ捨てる。
 それでもしがみつく謎のおばあちゃん像に、溜息一つ。
 スポンジを拾い上げ、皿洗いに集中する彼方だった。